建物について~関東大震災・戦争~
丸屋の店の建物は明治の終わり頃の建物だそうです。
品川宿は火事が多かったようで、2度の全焼経験から「簡単な家で良いよ」というのが現在まで残ったのだとか・・・!?
明治の終わり頃の建物ですので、関東大震災や戦争といった激動にも耐えた建物になります。
関東大震災そのものの話はあまり聞く事は無かったですが、今にも残る家の階段付近のヒビなどがそのまま残っているというのも驚きでした。
戦争の話としては真っ先に出てくるのは「空襲の綺麗さ」でした。
子供向けの話に変換されているかもしれませんが、それでも一番出てくる話が「あれは花火のようで綺麗だったよ」という話。
この辺りの人達は疎開をすることがなかったため、空襲による火災なども最小限に抑えられたのだとか・・・
・・・といっても、直撃は無かったというのが一番大きいところなのでしょう・・・
下駄屋とは関係のない嫁方の祖母にも話を聞くと、こちらの方は疎開先で花緒作りをやらされた、という思い出話を聞き縁を感じました・・・
現在でもまさにそうなのですが、花緒作りは内職の集まりのように工程分けされており、その時代にとっては身近な仕事だったのかもしれません。
戦時中の下駄屋さんは・・・
店を開けることが出来なかったため、一種の「闇市」のような形での取引になっていました。
下駄は品川駅に「チッキ」で目隠し包装をされた状態で産地から届き、それを引き取り、店で仕上げて~~という流れになっていたようです。
また、塗下駄の産地が当時から静岡にあり、直接取りに行くといった事もしばしばあったようで、
「途中で空襲にあった時は~~」という話もよく聞いたように思います。
普通に考えて、人が背負える下駄の量はそんなに多くはないでしょう・・・
自分の感覚的には50足も背負ったらギリギリのように思うのですが、それでも産地まで出向く価値があったということでしょうか。
草履や雪駄は基本的に近場に職人が何人も居たようで困る事は無かったようです。
※今では信じられませんが、近場=品川の町に、ということで、町に小売り屋と製造者どちらも存在していたようです。