革を巻いても草履という理由―丸屋チャンネル@youtubeまとめ―丸屋履物店

革を巻いても草履という理由


畳表のものを指して「草履」というのはその名の通りだと感じますが、
エナメルなどのものはどの辺りが「草履」なんですか?

という、簡単そうでメチャクチャ難しいご質問を頂きました。

草履、って何?っていうことですよね。

今回の動画は一見初心者向けのテーマにも感じますが、思いっきりマニアックなネタになってしまう予定です。
軽く簡単に草履について知りたい!という方はむしろ他の動画をご覧ください。

さて、草履とは何か。

当てられている漢字から想像すると「草の履物」であるのは間違いないのではないかと思います。
しかし問題なのは我々が草履と表現している履物が「コルク芯に革や生地を巻き付けた履物」という形に変化していること、ですね。
むしろ、この「変化」の際になぜ「草履」という名を離れて新しい名称を付けなかったのか、これが気になるところですね。

慶応元年創業 和装履物処「丸屋履物店」 6代目店主 榎本英臣

もくじ

◆草履として扱われてきた履物たち

◆尻切という草履

草履の編み余りの処理を想像する・・・

◆尻切と「せきだ」の関係性

◆女性用の草履としての尻切

◆尻切師の作業を見てみよう

◆江戸時代後期から明治の「草履」

◆革を巻いても草履という理由

革を巻いても草履という理由
動画版はこちらから

草履として扱われてきた履物たち

いきなり核心を突く事はできないので、
まずは「草履」とはどういう履物として扱われてきたのか。
これを調べてみようじゃないか、ということになります。 江戸時代以前に「草履」として扱われている履物はこんな感じになります。

・裏無
・げげ
・金剛
・尻切(しきれ)

その素材を見ていくと

・裏無・・・檳榔・い草・藁
・げげ・・・い草・藁
・金剛・・・い草・藁
・尻切・・・藁

こんな感じになりまして、なるほど、草を編んだ履物だな、と受け取る事ができます。
中でも裏無、尻切という履物については、身分の高い人が用いた形跡が見られ、今の感覚で言えばフォーマル格的な扱いを感じる履物になります。

現代的には草履といえばフォーマルシーン、というようなイメージが無きにしも非ずというところ。
今回のテーマ的には裏無・尻切という履物にヒントがあるように感じます。

裏無というのは形状が定かではないですが、個人的には表裏二枚重ねの草履、もしくは裏に革を当てた草履だったんじゃないかな~と想像するに留まるわけですが。
それにしてもイメージ的には畳表の草履そのものが当てはまります。

それに対して尻切。
これがおそらく今回のテーマの主役となる存在だと思います。


尻切という草履

尻切という履物の理解は難しく、そもそもそんな履物存在していなかったんじゃないか?という説もあるぐらいよくわからない履物です。
存在否定説の内容としましては
藁草履を履いていくとまず尻が破れる、この破れた状態の事を「尻切草履」と呼んでいた
だから、「尻切」=尻が切れた草履の事であって、特定の草履が存在していたとは限らない、という説があります。

それに対してよく「尻切」の説明として聞かれるのは
「その尻が破れるのを防ぐために踵を革で補強していた履物」と表現されることが多いです。

最も現代人にとって理解し辛いのは、その尻切と呼ばれる草履の形ですね。
有難いことに先人たちは「尻切」ってこんな形だったんだぞ!!と図で示してくれています。
それがこちらです。

お尻が・・・尖ってる??
これを指して尻切と呼んでいる。

これが理解できないですよね。
この形の意味するところは私も勉強不足でわかりません。

ただ、この形は貞丈雑記和漢三才図会・日本王国記などで共通して見られる形であり「尻切」と表現される草履になります。

想像でしかありませんが、この編み余りを残すというのは絵巻物などで見る草履にも確認出来るので、昔の人たちにとっては何か意味のあったものであるように感じます。

草履の編み余りの処理を想像する・・・

完全に脱線するのですが、お正月、松飾が目に入った時に思ったんですよ。
うわ・・・草履だ・・・って。

この接地面のわらを少し長めに伸ばしておく、この感じ。
これをハカマというらしいんですが。
その昔、「げげ」と呼ばれていた草履のスタイルに似ている。と。
本によっては「金剛」も同じく編み余りを足の周り全体に残したスタイルで表記されているものもある。
その昔、やはり信仰的な何かと草履が結びついていたのではないかと感じてしまいます。
その中の一つに「編み余りの処理」というのがある気がします。

しかし、そんな作法はやがて薄れていくと思われて、
「こんな草履見た事ない!」という感覚はなにも現代人だけではなく、それはもはや江戸時代の人にも分からなくなっている。
だからこそ、尻切は単なる尻切れ草履ではないか、という表現も見られるのだと思います。


尻切と「せきだ」の関係性

さて、この尻切に関して。
尻切とその後の流れを結ぶ話として
為愚痴物語」(1662@作者不明)という随筆の中に織田信忠の草履取りをしていた野間藤六の話が書かれていまして。
引用しますと


彼藤六、元旦にのぶたゞへ出仕しけるに、草履取しきれをさし出し見れば、
何とかしたりけん、其緒に鼠の血やらんつきたりける、ざうりとり年のはじめなれば、
是を忌てわきに立より、是をぬぐはんとす、
其時まではせきだと云物なく、しきれとておもてはぬきほを以ており、
緒をばかはにてぬひくヽみたる物なれば・・・


と話が続いていくわけですが。

いかがでしょうか。
この文章から、
しきれ、という履物はおそらく、武将・大名クラスの人の足元に採用されてきた。
ということと、
その「しきれ」という履物のポジションが、その後、「せきだ」という履物に変わった、という事がわかりますよね。

この「せきだ」とは何かというと、ご想像の通り「雪駄」であると思います。
雪駄の前身として「しきれ」があるんだ!という説を唱える方も多く、
それはこのようなポジション争いが「しきれ」と「せきだ」の関係性になるのではないかと思います。

この二つの草履を比較した時に、決定的に違うのは「しきれ」は藁であり、「せきだ」は竹の皮なんです。
既に同じく革底の仕立てになっていたんじゃないかと思われるわけですが、畳表の素材によって名称が違ったとしか思えないんですよね。

そして何といっても「せきだ」の背景にはあの千利休がいるわけで、
室町末期から江戸時代にかけて「竹の皮勢」の攻勢が激しくなるという、この構図はほぼ間違いないですよね。
この辺りは何度見ても、何度考えても興味深いところだと思います。


女性用の草履としての尻切

ということで。
そろそろ本来のテーマ見失っていないか?とツッコミが入りそうですが。
「しきれ」という履物はその昔武士などに履かれてきたことがわかりました。
しかし、「せきだ」の登場によって武士の足元から離れた「しきれ」は、その後なぜか女性専用の履物、というようなポジションに納まるんですね。
あえて言い換えれば、女性用の草履となるわけですね。

過去動画でも登場した「日本王国記」に見られる金剛、
江戸初期の人倫訓蒙図彙に見られる「尻切師」の存在。
江戸中期の和漢三才図会に登場する尻切・金剛の説明。

これらによって江戸初期頃における「女性用としてのしきれの存在」と「その後、少なくとも江戸中期まで「しきれ」が履かれてきたこと」が分かります。

気になるのはその「女性用としてのしきれ」はどのような草履だったのか。これですよね。
これについては和漢三才図会の記述を引用するとこのように書かれています。


稈シベ芯ヲ織テ(クツ)ト爲ス 其裏ノ下ニ薄皮ヲ著ツク
或表ニ錦ヲ張リ 以テ婦人之履ト爲ス
古所謂錦鞋線鞋之遺風カ
其尾(スホク)尖ル物ヲ尻切ト名ク


藁を織ったものに裏革をつけ、表に錦を張って婦人の履物とした。
これは昔の錦鞋・線鞋という貴婦人が履いた履物の遺風ではないか。
その尾が尖ったものを尻切といっていた。
という事だと思います。

つまりその昔、錦鞋線鞋という貴婦人専用の浅沓に錦や刺繍を施した履物があり、
その貴婦人用の浅沓を模した草履が「女性用としてのしきれ」である、と。


尻切師の作業を見てみよう

さらに、人倫訓蒙図彙から、「尻切師」の姿を見てみますと、こちらです。

編み余りを残した草履

ここでは隣に雪踏師が記載されていまして、雪踏を作る人と尻切を作る人が全く分かれていた事がよくわかります。
今回注目なのは尻切師の作業ですよね。
説明文を読みますと


裏付といふ藁蕊(わらしべ)をもってつくり
革の縁をつけ又絹のおもてをもつくる也
女の具なり


とあります。

これを元に絵を拝見すると。
藁を編んだ畳表に花緒をすげたものに、革の縁を付けていくシーンが描かれているように思います。

描かれている尻切師は刷毛を持って畳表をこすっています。
これは畳表に革の縁を付けるための糊を塗っているシーンでしょうか。
左下には縁用に裁たれた細長い革が置かれています。

一般の方がイメージするのは難しいかもしれませんが。
私はこういったシーンを現実に何度も拝見しています。
それは何かといったら、他でもない草履を作るシーンです。

このしきれという草履は縁を付ける事で耐久性を高めようとしているのかもしれません。
しかし、私には草履の側面を巻いているようなシーンと全く同一のように見えます。

ここでは描かれていませんが、おそらく説明文にある「絹のおもてをもつくる」というのは、和漢三才図会の説明文「錦を張り」と合わせても、
藁で編んだ畳表に錦を貼り付ける工程があり、そういった構造の履物があることを示していると感じます。

天吊り

それはつまり、現代における「天吊り」と呼ばれる作業です。
草履の足が乗る部分、を天と我々呼びますが、この部分の製造工程はまさに畳表に錦を張り合わせていくような、包み込んでいくような。
そんな作業になります。

この、製造工程の奇跡的な一致は、時代を超えて、現代にそのまま繋がっているんですね。

こう感じてしまったとき、
うわ~~~、草履の職人さんすげ~~~って思ってしまいました。

話が飛びすぎていますよね。
ここでちょっと落ち着いて。


江戸時代後期から明治の「草履」

今までしきれ、しきれと言ってきましたが、時代が進むにつれて金剛といった呼び名も加わり、また京阪と江戸でも呼び名が変わったようで、
江戸では乗物草履、などと呼ばれていたようです。

そのままおそらくは江戸後期、明治まで・・・と言いたいところですが、
あまり江戸後期から明治初期、というよりも明治30年に近い頃まで、あまり草履も雪駄もその存在が確認しづらくなってしまいます。
まさに時代は下駄全盛の時代になってしまうように個人的には感じます。
明治30年ぐらいまでになってきて、ようやく雪駄の復活や草履、という声が目につくようになっていく印象です。
この辺りの流れについては過去動画の「下足廃止の流れ」をご覧頂くとよくわかるのではないでしょうか。

デパートはダメ!?下駄の屋内制限と下足廃止の流れ

革を巻いても草履という理由

話を戻して。
本題である、「コルク芯に革や生地を巻き付けた履物」を草履と呼ぶのはなぜなのか。
これは紛れもなくかつての「しきれ」「金剛」「乗物草履」と呼ばれた履物の製造技術そのままを使用している事が要因になっているのではないでしょうか。

何を巻き付けても草履なのか。
ということは、問題ではなく、
この江戸時代当時、本天や革などを巻き付けていたそのベースになるものは藁で編まれた畳表です。
草で編まれた履物をベースに加工した履物、これは間違いなく草履の一種に入りますよね。

確かに現在、芯材に藁で編まれた畳表を使用している、というわけではありません。
その点に対して、おかしいじゃないか!という事もできるかもしれません。
しかし、現代の草履は「昔ながらの草履をベースに可逆的に進化した履物、草履である」と表現できます。
なぜならば、その素材は変化しているものの、その製造技術は同じだからです。
だからこそ、素材さえ工夫すれば、昔の履物を再現する事もできるし、現代に合う履物だって出来る。

素晴らしくないですか。
その様に感じるのは自分だけでしょうか。

長々と喋っていますが、単純にこの草履作りの技術を。
今風に見えるかもしれないけど、例えばエナメル草履一つとっても歴史が詰まっているんだぞ!という事を少しでもお伝えできればと思い動画にしてみました。
個人的にも今回の勉強をキッカケに草履という履物に対して愛着が深まりました。
皆さんにも参考になる事があれば幸いです。
最後までご視聴ありがとうございました。


革を巻いても草履という理由
動画版はこちらから

参考文献 引用
為愚痴物語

人倫訓蒙図彙

北野天神縁起

守貞漫稿

我衣

和漢三才図会

嬉遊笑覧

貞丈雑記

安斉随筆

はきもの変遷史@今西卯蔵
雪踏をめぐる人びと@畑中 敏之
日本王国記@アビラヒロン
講座日本風俗史 第5巻
はきもの@潮田 鉄雄


丸屋チャンネルまとめ