ごく稀に、下駄履きで止められてしまう所があると聞きました・・・というお声を頂く事があります。
この動画ではそんな建物内において下駄が禁止されているシーンはあるのか?という
七不思議の一つのような事を調べてみました。
慶応元年創業 和装履物処「丸屋履物店」 6代目店主 榎本英臣
・座売りと下足
・座売りから陳列式へ
・道路状況の改善~下足廃止に必要なもの~
最近・・といっても4,5年前なのですが、
六本木で雪駄履きが止められた、というケースと
サザエさんでデパートに下駄で行きたかったイクラちゃんを「マナー違反だからダメ!」と制するシーンが物議を醸したニュースがありました。
前者は雪駄履きの音が気になるため遠慮して頂くという方針だったようで、雪駄を禁止するというのは本当に稀なケースだと思いますが。
サザエさんで表現されている「デパートに下駄で行くのはマナー違反」というのは今回の動画テーマを調べていて、まさに!と感じたところでした。
自分がこの件について調べていたところ辿り着いたのは役所・図書館・小学校でした。
この3つの建物内では下駄履きを受け入れないという時代が確かにあったようです。
まず、日本人の慣習として家に上がる時は履物を脱ぐ、ということは皆さんご承知の通りだと思います。
それに対して靴を履いたまま家の中へ・・・というのが洋風文化ですよね。
この洋風文化、というよりも外履きのまま中に入る事が出来る洋風建築の採用が明治時代になって徐々に日本で見られるようになっていきます。
その筆頭が役所・図書館・学校といった公共施設でした。
これらの施設が建物内でも靴OKになったのですが、しかし、下駄はダメだ!という事になってしまったようです。
理由としてはその音もあったようですが、建築そのものの技術なのか、材料の違いなのかはわかりませんが、
「下駄は床を傷めてしまう」というのが理由として挙げられているのを見ました。
靴であっても踵に金具を打ってあるようなものは禁止、という事もあり、これも音と床材の保護の観点があるように思います。
実際に役所や図書館に下駄を履いていった場合はどうなるのか、と言いますと、
その場で備え付けの上草履に履き替える事になっていたようです。
赤い花緒の麻裏草履だったようで、これが嫌だった、というような表現が当時の資料を見ていくとよく見られます。
履き替えるのは嫌、というのは想像しやすいところなのですが、
どうやら履き替えさせる方、つまり下足番の苦労もなかなかのものだったようです。
具体的にニュースで見てみますと
明治41年11月の朝日新聞で図書館の下足問題が取り上げられているのですが。
入館者は少ない日で300~400人。多い日で900人となり、その7割が下足を取る。
それを2人の下足番で捌くので大変だ、というのが新聞記事になっています。
そして今回のテーマに近い位置にあるデパートの前身、呉服屋さんにとっても下足は大きな問題となっていたようです。
呉服屋さんのスタイルは「座売り」と言って履物をぬぎ、座敷に上がって、商品を見せてもらうというスタイルの営業でした。
履物を脱いで上がる以上、下足番とその管理が必要になっていたわけですね。
規模が大きくなればなるほど、下足に悩まされる状態になっていまして、
ならば下足を廃止しよう!という自然な流れが出来てきます。
座売りから陳列式への転換です。
お客様を招き入れて、店の奥から商品を出してきて見せるスタイルではなく。
店内に商品を並べた状態でお客様に見てもらう、という今では当たり前のスタイルに変わります。
この方法を取り入れたのが三井呉服店。つまり日本初の百貨店である三越百貨店の前身と言える呉服店になります。
さらに明治43年6月三越の重役であった濱田四郎さんという方が実際に下足廃止を呼びかけていまして、
その時の訴えがこのような内容でした。
1:客の出入りが楽になる
2:預かり渡し(下足)の混雑が無くなる
3:店内設備の簡素化 (スリッパなど置く必要も無い。下足預りもいらない。手荷物だけ預かればいいだろう)
デメリットもあげていまして
1:陳列した商品が無駄になる
2:店内衛生を保てない
3:ひやかしが多くなる
これらを改善するために道路を良くしてくれ!と嘆いています。
泥道+下駄履きのままでは下足廃止もままならない!
つまり、三越にとってはデパート化が難しいということで、なかなか下駄は嫌われ者になっていくわけです。
なぜ下駄だけが店内に泥を運ぶと考えられているのか、というのは私としては気になる所ではありますが、
道路を良くすることで履物に汚れが付かないようになれば、そのまま店内に入れるようになる。
これはお客様にとっても店側にとってもメリットが大きいだろう、というのは非常にわかりやすいですよね。
外履きの履物を履いたまま、買い物だったりサービスを受ける事が出来るというのは明治の人達にとって画期的だったとも言えるわけです。
そういえば、江戸から続いている下駄屋さんが身近にあったな~と思いまして、改めて建物の作り、という面で見てみますと。
話に聞く限りでは、今お店になっている半分以上は畳敷きとなっていました。
入口がちょこんとあり、ウインドウも極小さく、履物を脱いで上がって頂くスタイルのお店だったんですね。
確かにそういう意味では今でも引き出しの中に花緒がありますし、これを出して座敷に広げて、お客様に見て頂くというのも想像しやすいところです。
座売りというと調べても呉服屋さんしか出てこないのですが、意外と下駄屋というか、当時の一般的な手法だったのかもしれません。
やがて陳列式の店の方が良いということで、丸屋の店内も石畳へと改装して、外履きのまま買い物が出来るようになったわけですね。
この下足廃止の流れは明治の終り頃に起こるわけですが、
実際に下足廃止したところが多くなったのは良くも悪くも大正12年9月1日関東大震災が一つのキッカケとしてなっていたようです。
地震で建物が変わった事で、外履きのまま店に入れるような建物が増えていった、ということです。
このように公共施設と百貨店の下足廃止までを見てみましたが、
下駄を「禁止」というまで態度を強めていたのはむしろかつての公共施設だったようです。
この公共施設での上草履へと履き替えさせられる経験が「洋館に下駄で出かける」ということへの悪いイメージとなっていたのではないでしょうか。
また、サザエさんの「デパートに下駄で行くのはマナー違反」という表現も、
このような下駄が嫌われていた背景と、デパートはお洒落をしていくところ、というイメージが当時の方には強かったのだと思います。
サザエさんの著者は大正生まれですので、むしろ当時の意識を表した貴重な表現だったと言えるかもしれません。
もちろん現在においては下駄履きを止められたとか、スリッパに履き替えさせられた、というのは非常に稀なケースです。
しかし、美術館など、静かに楽しむ所で履物の音を気にするような場面では木がむき出しの下駄は避けた方が良いというのはあると思います。
さて、少々余談となってしまいますが。
この道路状況が良くなっていき、下足が廃止されて外履きのまま建物の中にも、という流れと共に、
当たり前のように履物の変化が起こり始めています。
どうしたって下駄が槍玉になっちゃってますからね・・・
では下駄ではない履物って何?というところで、雪駄・草履の流行がありました。
というよりも、雪駄に関しては江戸時代に履かれていた物が復活したかのような扱いをされていて実は馴染みの薄い履物だったようです。
草履についても今のコルク芯のスタイルが出始めたのが大正初期ですので、
この道路状況の改善・下足廃止の流れと共に進化した、もしくは新しく考えられた履物だったと言えると思います。
負けじと下駄の方も右近の前身であるフェルトを下駄底に貼ったシューズ履きが昭和初期に誕生。
このように時代背景を考慮した上で改めてそういった履物の変化を見ると不思議と時代に合わせて考えられた商品だったという事がよくわかりますね。
しかしこの流れで行きますと、大分昔に下駄という履物の息の根が止まっていそうな勢いですが、
どのように下駄が生き残っていったのか。
むしろ、我々下駄屋が「下駄は生き残っている!」と言いたいだけなのか。
というのは昭和を調べていく今後のテーマとなりそうです・・・
以上、最後までご視聴、ありがとうございました。
参考文献 引用
職人盡繪詞. 第2軸
日本人のすがたと暮らし 著@大丸弘 高橋晴子
近代日本の身装電子年表より↓↓
朝日新聞@明治41年11月30日
実業界6月号@1910