ツボ下がりという履物、皆さんご存知でしょうか。
今現在ツボ下がり、というと、真っ先にイメージされるのは畳表で、タイヤ裏。
前ツボの位置が下がって花緒がついていて、爪先にちょっと反りの入った草履ではないでしょうか。
いわゆる鳶の頭が履いている、といったイメージが非常に強く、お祭りなどで履かれる事が多い草履です。
この動画ではそんなツボ下がりについて着目して「そのルーツはどういったものなのか」というところを見ていこうと思います。
慶応元年創業 和装履物処「丸屋履物店」 6代目店主 榎本英臣
ツボ下がりを代表するタイヤ裏で仕立てた草履の事を我々「実用草履」というのですが、
現代においての役割は未だに残っていて、基本的には先にもあげたように鳶職などがお祭りの時などに履くといった出番が第一であると思います。
その裏では、やはり仕事履きとして大工・左官といったご職業の方の足元に履かれています。
どちらかというと「仕事履き」というイメージが強い履物になりまして、いわゆる「職人さん」が履く履物ということですね。
当然その昔はゴムタイヤなんて底がついているわけがなく、その前身ということで考えていくと「麻裏草履」という履物に行き当たります
。
麻裏草履は畳表にタイヤではなく、麻紐を裏に縫い付けて底の変わりとした草履です。
この麻裏草履が実用草履の前身である以上、何かしら「ツボ下がり」のヒントがあるのではないかと追ってみました。
この麻裏草履が誕生したのは文化文政の頃、と言われています。
文化文政の頃というと、ものすごくリッチなイメージがありまして、
花緒に珊瑚を付けていた、とか、下駄に引き出しを付けてお湯を入れて暖かくしていた、とか、
雪駄の裏に真鍮の象眼を嵌め込んで、あえて裏を見せるようにしていた、
というちょっと現在では真似しようもないレベルにリッチな履物が目につく時代で、
先日動画で紹介した遊女の上草履についてもちょうどこの頃と言われています。
そういった履物が挙がってくるとついついそちらに興味が出てきてしまうのですが
そちらの方まで紹介してしまうと、それだけで大変な時間を割くようになりそうなので、
ここでは敢えてスルーして、初志貫徹、麻裏草履に焦点を当ててみようと思います。
どちらかというと先に挙げたような、ちょっと特殊な富裕層への履物が多く作られていた時代に仕事履き・普段履きを用途とする麻裏草履は生まれました。
そういったリッチな履物に対して飽き飽きしていた、というよりももっと実用性の高い履物、という要望があったのかもしれません。
そういう背景から見ると圧倒的に庶民派であって、今でいうファストファッション的な位置づけであると思います。
革裏の雪駄じゃないけど、その代用品、麻裏がついてそこそこ耐久性もあるし、いいか!というところですね。
その当時は何かと「新しい履物へ改める」ということを要求されており、
正直なところ「良い物をドンドン新しく替える」というのは辛かったようです。
ならば、と価格を抑えた代用品のようなもので惜しみなくドンドン替えた方がむしろ体裁が良い。
しかもこの麻裏草履、なかなかの耐久性もあったようで、
長旅といえばわらじを使用していた人達も1~2日の遠足であれば麻裏で良い、というように耐久性・歩きやすさの面でも評価され
当時の人達の生活に馴染んでいきました。
現在の実用草履というと完全に仕事履きとしての履物というポジションにありますが、当時は比較的幅広い層に好まれて履かれていたんですね。
この麻裏が明治の末までそのまま支持され続け、ゴム裏・タイヤ裏に変わって現代に残っているというのが麻裏草履と実用草履を繋ぐストーリーです。
ということで、ツボ下がり・・・というよりもタイヤ裏の実用草履のルーツは麻裏草履にある事はわかりました。
しかし、この動画のテーマはなぜ「ツボ下がり」という履物が生まれたのか?です。
もう少し踏み込んでみようと思います。
この麻裏草履。
実は2種類あったようで、守貞漫稿より引用・抜粋させて頂きますと
「普通藁心製綿入緒あり綿納緒は太きを専とす
又普通長緒より殊に緒を長くす細緒にて前緒は短くしたるを「ツツカケ」と云突懸也
鳶人足等凡賤業侠風の輩用之」
つまり。
綿を入れた太目の花緒と、花緒を長くして前ツボを詰めた「突っ掛け」スタイルの2種類が存在していた。
突っ掛けについては鳶・職人といった鯔背な人達が履いた。
ということがわかります。
この花緒を細く・キツめにすげて突っ掛けたというスタイル。
もう完全に親しみを覚えるレベルで馴染みがありますよね。
やっぱりそうやって履いてたんだ!
と思わせてくれた瞬間です。
散々「サイズ合ってないんじゃないか?」とか「花緒きつすぎじゃない?」とか言われてきた甲斐があった、というもの??
ツボ下がりのルーツを探していまして、もう一つ、気になったものがありました。
「爪かくし」と呼ばれた履物です。
これは麻裏草履よりも古く、享保(1716~1736)の頃、遊女の履物とされた草履です。
「我衣」より引用させて頂きますと
「享保の初より「爪かくし」とて、京ぞうりの前緒をつめて前の方上へそらし足の指、向ふよりみぬよふにしたる草履あり。
皆遊女のはき物にて常の女はかず。」
爪先が隠れる構造の草履、がどういった構造かは詳しくはわかりませんが、およそ畳表に裏がチョコンと付いたような履物であれば、
花緒のすげ具合によって履物を反らせる事は簡単だと思います。
それがつまり、「前緒をつめる」ということです。
爪皮のようなものをつけて爪を隠した、と考えるよりも、花緒をキツくする事によって、爪先を反らせた履物と考える方が自然だと思います。
これはおそらく当時の異性の魅力を感じるポイントとして「足」が大事な要素になっていたからこそ、敢えて隠した、というような考えられますが。
理由はどうあれ、花緒をキツくすげる事により爪先を反らせた履物が存在していた、ということが今回のテーマでは重要になると思います。
ここで、もう一度麻裏草履へと戻りましょう。
先の守貞漫稿の記述で、個人的に最も気になったのは「前緒を短くしたるを突っ掛けという也」という部分です。
前緒を短くする。
つまり、花緒をキツめにすげる、ということですよね。
これ「爪隠し」になってないでしょうか??
と思ったんですよね・・・・・・
ツボ下がりの特徴って何よりも「反り」ですよね。
その「反り」の正体は・・・
実はキツい花緒のすげ具合にあったのではないか・・・????
爪隠しから麻裏草履の突っ掛け、という流れで見ていくと、コレだ!!!!と自分の中では確信するものがありました。
文字だけ・喋ってるだけでは分かりづらいので、ここはyoutubeらしく実際にやってみましたので、どうぞご覧ください。
畳表に花緒をキツめにすげる事で、自然と反りが生まれる、という事がお分かりいただけたのではないかと思います。
当時、前ツボの位置を下げるというよりも後を通す位置を下げる事によって花緒を長く見せるというのが雪駄の方でも流行していたようで、
それにならって出来る限り後にすげてみました。
前を詰めることで、後の花緒で突っ張られ反りが自由に生まれる事が分かると思います。
さらに実際に履く事により履物が安定し、より爪先が反るような恰好になっていきます。
この姿。
まさに現代のツボ下がりですよね。
少なくとも、「爪がくし」という履物はこんな感じだったのではないかと思います。
実際に前から見ると爪が見えない、というような具合のアングルになります。
まだ裏を何もつけていない、ということ、花緒が違うじゃないか、など「再現」と呼ぶにはおろそかかもしれませんが、
イメージとしてはやはり花緒のすげ具合によって反りを付けていた、というのは間違いないのではないかと思います。
おそらくは自然な流れとして突っ掛け草履からツボ下がりへと進化していったのではないかと思います。
そう考えていくと、このツボ下がりという履物は遥か200年も前からあまり大きくスタイルが変わる事無く、しかも履かれ続けてきた履物という事になると思います。
しかも、この履物はむしろ敢えて昔のスタイルを残している、というようにも感じます。
その特徴は個人的には、花緒にある、と思います。
実用草履の花緒で、最も特徴的なのは前ツボです。
今まさに色々な下駄や雪駄・草履に使われる花緒の前ツボは麻を本天などの生地で包んだ構造。
それに対して実用草履の前ツボは巻き捻りといって、麻そのままを横緒に巻き捻って前ツボとしています。
この前ツボが昔ながらの作りで、花緒の進化過程を感じるところでもあると思います。
実用草履の花緒はまさに麻裏草履が起こった当時の花緒の構造のまま現代に残っています。
現在においてはむしろそのままのスタイルで再現する方が手間が掛かってしまうのではないかと、自分なんかはついつい商売的な見方をしてしまうわけですが、
それだけスタイルを変えない、伝統的なスタイルを好む方達に支持されてきた履物、ということでもあると思います。
それはもちろん日本の職人さん達なんです。
また、前ツボが非常に特徴的であるとともに、実用草履ならではの花緒も存在しています。
現在実用草履の花緒を見ると白無地・真田紐・チドリ、この3種類があります。
白無地については普通の、いわゆる下駄雪駄にすげるような花緒にも白無地はありますので、特徴を掴む事は出来ませんが、
真田紐、チドリについてはどちらも非常に特徴的な花緒だと思います。
というよりも、普通の花緒としては存在していない花緒です。
真田紐については模様を取り入れたり、裏を付けたりといった形で花緒になっているものはありますが、
真田紐そのものに例の巻き捻りの前ツボをつけたスタイルがなんとも昔を感じてしまいます。
単純明快に真田紐そのまま使える事・しかも強度が十分だったこと。
花緒の機能として優れていたという事だと思います。
もう一つチドリについては必ずといって良いほどツボ下がりの実用草履にすがります。
「真っ白じゃダメなんだよ、チドリの花緒にしてくれ」というように、これはお客様のご要望にもなるぐらいです。
ここはまた推測になってしまいますが、
花緒はおそらく職業や身分といったものを表していると思います。
少なくとも何かしらの意味が無ければ昔ながらのスタイルを残していないはずです。
真田紐の花緒に関しては今でも「この花緒は左官や大工の花緒!」という方も現実にいらっしゃいます。
個人的にも店番していて、お客様の方から「お前、この花緒(真田)が何を表しているか知っているか?」と言われた事があります。
自分が若いので知らないだろう、ということだったのかもしれません。
それに対してチドリの花緒は単純な白無地ではなく、緑の糸の縫い目が見られる特徴を持った花緒です。
本来ならば縫い目を隠すようにクケた方が花緒の見た目として綺麗ですが、敢えて縫い目を出すようにチドリ掛けをして花緒としているわけです。
しかも、普通に考えれば白無地に合わせて選ぶ糸は白で目立たなくするはずなのですが、
なぜか緑と、ハッキリと「チドリ掛けした花緒」であることがわかるようになっています。
このなぜか目立つように工夫された花緒に意味が無いわけがない、ですよね・・・
このチドリ花緒はあまり職業的な事が表現される事はありませんが、
・あえて白無地ではない花緒
・必ずと言って良いほどツボ下がり
・鳶の【正装】になる
ということからも、もう答えは出ているだろう、と思ってます。
やはり、これは「鳶」を表しているとした方が自然ではないかなぁ、と思うわけです。
では、ツボ下がりは鳶の履物であって、一般は履くべきではないのか。
という事になってしまいますが、これについてもそうではないと思います。
言ってみれば憧れの人を真似している、という事になるのではないでしょうか。
事実としてこの「突っ掛け」スタイルの麻裏草履は「江戸っ子の履物」として履く庶民も多かったようです。
むしろ「江戸っ子」を象徴する履物、と言っても良いかもしれません。
先日アップしました外反母趾の動画を作る際に「日本人の歩き方」について調べていたんですが、
そこで偶然に見つける事が出来たのが「日本の芸談(平山蘆江著)」という本。
この本の中には
「足は踵でもなく、爪先でもなく、足の小指のつけ根のあたりからまづ下して拇指のつけ根の方へ及ぼすといふやり方で
どつちかといへば踵は少しも地につけない。それは江戸ッ子特有のつゝかけ草履の穿きぐせを持ち込んだのである。」
という一文があります。
これは歌舞伎において、役を演じる際に気を付けること、として挙げられています。
侍を演じる時には刀の重さがあるため、踵に重心がくるのに対して、
江戸っ子は突っ掛け草履を履いているから極端に前重心であると。
これを頭に入れておかないと上手い芝居にはならない、ということを表現されています。
この突っ掛け草履を履くという事がなぜ江戸っ子という事になるのか、と言いますと。
麻裏草履そのものが江戸に起こり、江戸で履かれた履物であるからです。
どうやら少なくとも関西には同じようなスタイルの履物は無く、麻裏草履とは違う形で関西は関西で発展しているようです。
つまり、このツボ下がりは江戸文化である、と言っても過言ではないと思います。
それぐらい歴史のまま、今でもそのままのスタイルを忠実に再現して残していると言える履物であるはずです。
正直、だからこの履物をもっと履こう!と言う気にはなりません。
この履物は現代人にとって、本当に修行といっても良いぐらい辛い履物だと思います。
しかし、そんな江戸文化に触れてみたい方、
お祭りで昔ながらのスタイルでバッチリ決めたい方にとっては必須だと言っても良いぐらいの履物だと思います。
是非ツボ下がりをチョコンと突っ掛けて踵を浮かせて歩いてみてください。
以上。
いかがだったでしょうか・・・
今回の動画でご紹介した参考文献は国立国会図書館のデジタルコレクションでオンラインで読める資料も多いです。
概要欄にリンクしておきますので、ご興味のある方はそちらもご覧ください。
長くなりましたが、最後までご視聴ありがとうございました!
参考文献 引用
今西卯蔵著「はきもの変遷史」
守貞漫稿
我衣
平山蘆江著「日本の芸談」