雪駄と侠客 ~雪駄が生まれた瞬間~―丸屋チャンネル@youtubeまとめ―丸屋履物店

雪駄と侠客 ~雪駄が生まれた瞬間~


前回「冷飯草履と中抜き草履」という動画の中で、最後に「雪駄やるかも」という話をしていましたが、早速お題にしてみました。

「雪駄」をお題にする上でまず、必ず問題になるのが「雪駄という名前の由来」と「それがいつから履かれているのか・作られたのか」ということです。
これを解明していくには現時点の私には荷が重いので、ここは一旦スルーさせて頂きまして、
「雪駄」が我々のイメージするいわゆる竹皮を編み込んだ畳表に革底を縫い付けた「雪駄」というスタイルに至った瞬間と、その進化過程についてまとめてみたいと思います。

私が読んできた履物系の文献の中で最も雪駄について詳しく書かれているものは「我衣」だと思います。
文化の時代に書かれた文献という事もあり、雪駄が流行したとされる時代にも近く、雪駄の作りや履かれていく様子の描写がよりリアルに感じます。
前回の動画でも「我衣」の記述を読み解いていくことで明確になっていくこともありましたので、
今回もそれに倣って「我衣」の雪駄に関する記述をここで一緒に見ていこうと思います。

慶応元年創業 和装履物処「丸屋履物店」 6代目店主 榎本英臣

もくじ

◆我衣の「雪踏」の記述

◆地雪駄について

◆上雪駄について

◆雪駄と侠客

雪駄と侠客 ~雪駄が生まれた瞬間~
動画版はこちらから

我衣の「雪踏」の記述

まず、我衣の記述がこちらです。
くずし字の判別には「みを」というくずし字認識アプリを使用しています。
出来る限り正しく読めるように努力しているつもりですが、
誤っている個所もあるかと思いますので、ご興味のある方はご自分で確認しながら照らし合わせてください。

元文の我衣はこちらです。


貞享(1684~1688)頃迄は地雪踏といふは穢多雪踏の仕立なり
真竹皮にて表を作り革は馬皮也
下になる物は皮ざうりに裏を 挿絵 裏を付けたる物也
皆上方より下るは下品也
革足袋を商ふ人大津の石割とて強向の雪踏をいふて商ふ
尤はやる貞享(1684~1688)乃末に至って江戸に雪踏の上手出来て
若手あつらへ是をはきたり
元禄(1688~1704)初めより切廻しとて
挿絵 上雪駄はやる
又表真竹のさらし皮少しも黒フなし
地合細かに唐櫛乃如し
鼻緒タマゴネジ前とも緒シトウ革にして
水牛之尻に鉄を打 元字金十両位也 より弐朱にうり
是より上方雪踏下品なる
かへつて京大阪登ける然れども重く老人はいかがなり
元禄(1688~1704)宝永(1704~1711)至って若手乃腕こすりする物
切廻雪踏に唐柿の足袋はかぬものなし
其後革緒乃切廻出(黒ぬり・赤ぬり)足袋付の方をぬらす
白革にて半分をぬりたり
又白皮一色もあり
鼻緒白皮の寄也


このような文章があるわけですが、パッと見て理解できる、という感じでもないですよね。
この文章から分かる事は大きく2点。

・地雪駄と呼ばれる雪駄と、上雪駄と呼ばれる雪駄が存在している
・元禄頃から「上雪駄」が流行り始める

ということですよね。

まずはこの「地雪踏」と「上雪踏」の違いの理解から進めてみようと思います。

※漢字は「雪駄」に統一します

地雪駄について

まずは地雪駄について
文章を抜き出してみると


貞享(1684~1688)頃迄は地雪踏といふは穢多雪踏の仕立なり
真竹皮にて表を作り革は馬皮也
下になる物は皮ざうりに裏を 挿絵 裏を付けたる物也
皆上方より下るは下品也


地雪駄というのは真竹皮で編まれた畳表に馬の革を付けた履物だったことがわかります。
いわゆる「雪駄」の定義は竹皮で編んだ畳表に革を縫い付けた履物、ですから、この地雪駄についても間違いなく雪駄である、と思います。
そんな地雪駄が「貞享の頃迄は~~」と記述されているように、もっと古くからあったんだよ、という事をほのめかしていますよね。
その部分については今回は置いておいて・・・
続けて
「下になる物は皮ざうりに裏を付けたる物也」
とあります。
ここで皮草履と表現される履物は現代人が文字のみで判断するとヘビや牛革などで作られた革草履、をイメージするわけですが、
この時代の皮草履は「竹皮で編まれた草履」の事を皮草履、と言っていたようです。
藁で編めば藁草履。
竹の皮で編めば皮草履。
という具合ですね。
つまり「下になる物は皮ざうりに裏を付けたる物也」といっても。
これも竹皮を編んだ畳表に裏革を付けたスタイルの履物だった、
つまり雪駄の構造をしていたというのは間違いないと思います。
ここで挿絵があり「こんな履物だったんだよ」と教えてくれているわけですが、裏を見せてくれよ!と思うばかりで、感じるものはありませんでした。

地雪駄
地雪駄挿絵

この皮草履という履物そのものが上方からの下り物とされているので、
上方から下ってくる地雪駄は皮草履に裏をつけたような物だった、という表現だと思います。


上雪駄について

なんとなく地雪駄というものが分かってきた所で今度は上雪駄に移っていきましょう。
まずはこの辺りの文章を読み込んでいきます。


革足袋を商ふ人大津の石割とて強向の雪踏をいふて商ふ
尤はやる貞享(1684~1688)乃末に至って江戸に雪踏の上手出来て
若手あつらへ是をはきたり
元禄(1688~1704)初めより切廻しとて
挿絵 上雪駄はやる


雪駄といえばほぼ地雪駄だったところに「石割」という雪駄が大津から入ってきた、とあります。
この石割雪駄の作りの詳細はわからないものの、守貞漫稿等の他の文献も見てみると
「非常に堅固な作りだった」というように紹介されている事が多い雪駄です。
おそらくは、当時の「地雪駄」よりも強い作りだったのでしょう。
その石割雪駄を参考にしたのか、
「尤はやる貞享乃末に至って江戸に雪踏の上手出来て 若手あつらへ是をはきたり」
という事態になるわけですね。
貞享の末に雪駄作りの技術が上がり、それを履く若い人たちが多かった。と。
それがいわゆる「上雪駄」へと繋がるものだと思われます。
どちらかというと「上雪駄」という表現は我衣独特の表現のように思います。
他の文献ではその作り方である「切廻しの雪駄」という表現をされることが多いですね。
切り廻しというのは裏革の周りに溝を切る事によって、縫い糸を隠す構造のことを指し、
この「上雪駄」は雪駄の作り方にも変化が生まれた瞬間だったとも言えます。
ここで挿絵もあるわけですが、やはり表側の絵になっていて、よくわからないところでもあります。
しかし、これは読み進めていくうちに謎が解けていきますので、もう少し読んでいきましょう。

上雪駄
上雪駄挿絵

又表真竹のさらし皮少しも黒フなし
地合細かに唐櫛乃如し


これはわかりやすいですかね。
真竹の皮を晒して編むようになって、竹皮の黒いフが表に表れなくなったということ。
地合、というのはつまり編目の事だと思われ、
編目が細かくなって、その様子がまるで櫛のようだ。と言っているわけですね。

ここまできて、挿絵の絵が意味を成してくるように思います。
改めて挿絵を見てみましょう。
地雪駄の挿絵と上雪駄の挿絵を比較するとこんな感じです。

上雪駄の挿絵はその編目が横に走るように描かれているのに対して、地雪駄の編目は斜めになっている。
この畳表の編み込みの美しさが「上雪駄」の大きな魅力となっていたのではないでしょうか。
というよりもこの段階において、既に畳表の良し悪しを見分けるようになっていた、と言っても良いと思います。
むしろ、皮草履の編み込み具合、竹皮のフが表れた見た目が「あまり美しく無い」とされてきたのかもしれません。
そこで、竹皮を晒す事によって、畳表の仕上がりを美しくさせた。
これはまさに現代の南部表に繋がる物があると思います。

まだ文章は続きますのでもう少し追っていきますと、こんな感じです。


鼻緒タマゴネジ前とも緒シトウ革にして
水牛之尻に鉄を打 元字金十両位也 より弐朱にうり 
是より上方雪踏下品なる
かへつて京大阪登ける然れども重く老人はいかがなり


花緒については勉強不足でよくわからないのですが。
タマゴネジの花緒については黄色と白のねじりの花緒ではないか、と言う方がいらっしゃいます。
裏には「シトウ革」という水牛の革をつけ、尻には鉄を打ち。
ということでようやく裏がねの気配が出てきましたね。
これがちょっと高かったようなのですが、この雪駄の出現により上方の雪駄を超えたと書かれています。
上方から下る一方だったのに、この雪駄は京大阪に登るようになったと続くわけですが、
尻に鉄を打つ仕上げが重いのか「老人には重すぎる」というようなニュアンスを感じます。

ではどんな人が履いたのか。続く文章には


元禄(1688~1704)宝永(1704~1711)至って若手乃腕こすりする物
切廻雪踏に唐柿の足袋はかぬものなし
其後革緒乃切廻出(黒ぬり・赤ぬり)足袋付の方をぬらす
白革にて半分をぬりたり
又白皮一色もあり
鼻緒白皮の寄也


「若手の腕こすりする物」とありますね。
「腕こすり」という単語が表しているわけですが、ちょっとよくわからない。
そこで、守貞漫稿に助けを借りると、同じく切り廻し雪駄の話で「江戸侠客等」と表現しています。
腕こすり=侠客、ということでしょうか。
腕に覚えのあるもの、というような表現にも感じますので、侠客と表現されればなるほどそうか、というところでもあります。

つまり、この「上雪駄」は侠客が履いていた、というわけですね。
その当時の流行が、
切廻の雪駄つまり上雪駄に柿渋で染めた足袋だったと。
花緒は表が黒か赤に漆塗りされた革で裏は白だった。
白無地もあったし、白に撚りを加えたものもあったよ、と続けています。

雪駄と侠客

この雪駄と侠客の関係について。
一度現代に戻って考えてみると。
「雪駄はヤクザの履物だ」と言われたり、聞いた経験はありませんか?
少なくとも昭和初期頃、戦後辺りまで、雪駄のイメージはこういったイメージがついてまわった物と思われます。
この言葉の表すものは何なのか。
幾度となく考えてきたテーマでもあります。
もしかしたら、「寅さんの影響が大きいのではないか」と感じた事もありました。
しかし、雪駄=侠客というイメージはもっと古いんですね。
というよりもこの流れからすると、上雪駄、つまり現代の雪駄へと繋がっていく流れ、雪駄が進化してきた過程の中で、
まさに上雪駄へと進化した瞬間から、侠客の足元として存在しているということになります。

この雪駄=侠客、のイメージの象徴ってなんですか?
ベタガネ。
ですよね。

ベタガネ

この裏がねを付けたのはちょっと遡って話の途中で出てきた石割雪駄と呼ばれるものが初めとされています。
この石割雪駄が江戸に入ってきて、上雪駄に繋がる雪駄作りの技術向上があったわけです。
その上雪駄には「水牛之尻に鉄を打」とありますので、当然、鉄、打ってありますよね!

これが裏がねの、いわゆるチャラチャラという音が江戸の町に響くようになった瞬間ではないでしょうか。
少なからずこの音が江戸っ子の心を惹きつけるものがあったんでしょうね。
このベタガネの音というのは少なからず道行く人の注目を集めますし、
しかもそれが出来たばかり、とあれば「なんだあれは!?俺も俺も!!」と広がっていったのは想像しやすいのではないでしょうか。



ということで、雪駄が、いわゆる我々のイメージする雪駄として履かれ始める瞬間をご紹介させて頂きました。
この裏がねの音、イメージこそが「雪駄なんだ」となるまで、これはそんなに時間が掛からなかったようです。

正装履きとして「裏付け草履」「中抜き草履」という存在がある中で、
時代と共に重ねの枚数を増やしていく「裏付け草履」に対し、雪駄は低いスタイルのまま現代に伝わっています。
後二、後一、とこだわる方はまだまだいらっしゃいます。
そこにベタガネを付けてチャラチャラと。
こういったスタイルはおよそ300年前からあるんだ、ということをお伝えしたいと思いこんな動画を作らせて頂きました。

最後までご視聴、ありがとうございました。


雪駄と侠客 ~雪駄が生まれた瞬間~
動画版はこちらから

参考文献 引用
守貞漫稿
我衣
はきもの変遷史@今西卯蔵著

Aiくずし字認識アプリ-みを(miwo)


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