日本の履物の歴史と信仰―丸屋履物店

日本の履物の歴史と信仰

はじめに

1865年。
慶應元年の品川というのはどんな街だったのだろう。
話で聞く品川の昔話はどれも賑やかなものばかり。
花街のイメージ。いやいや漁師町でもある。
海が近く船が着く事から物資・食物も豊富で専門店が所狭しと並んでいた・・・
こんな姿は今となっては想像するのも難しい。
創業者は、そんな賑わう品川に下駄屋を開く事を決めた。
元はと言えば現在の立会川の方で下駄屋をやっていた家系の娘さんである。
当時の品川に店を開くということは、今で言えば一等地に店を開くようなもので、なかなか見る目があったのではないかと感じる。
2025年はそこから160年という節目の年。
私自身が160年携わってきたわけでもないが、先代達の奮闘、多くのお客様の支えによって長くこの場所で下駄屋をやっていられている。
その感謝を込めて。
何か自分にも出来る事を、と考えてみてもなかなか良い案は浮かばない。
皆さまに興味を持ってもらえるかは別として・・・
先代達に捧ぐ、ということであれば昔話が面白いかと思った。
丸屋は160年になるが、日本の履物史はそれに0が付くほどに古い。
こういった履物を追いかけてみて、日本の履物を感じてみるというのはどうだろうか。
そこには履物の価値観のみならず、日本人の考え方が見えてくるのではないだろうか。
なぜ自分達が履物を作り・支えてきたのか、というのも薄っすらと覗く事ができるはずだ。
だから、俺たちは下駄屋だったのか、と。
ただただ、自分達の仕事の意味を知りたいだけ、というのもあるかもしれない。
そこまで辿り着けるかどうかはわからないが。
日本の履物の歴史を。
履物に携わる先人達、研究に携わる先人達の力を大いに借りながら、ここに表してみたいと思う。

もくじ

・はじめに

・序論 ~youtube発信活動とそれを止めたもの~

◆youtube発信活動とそれを止めたもの

■民俗学側に足りないものはなにか

・第一章 清浄さと履物の関係性

◆清浄性を保つための履物

◆神事の足元に注目してみる

■地に足を付けない、という作法 ~祇園祭・他~
■履物は不要なのか?

◆浄履と草履

■浄履を知る
 ・▲「二十六條式」
 ・▲「東長儀」
■蓮台 ~仏が地に触れぬ理由~
■草履は蓮台の代わりとなり得る
■履物を履き替える意識

・第二章 履物を捨てる作法から見えてくるもの

◆「履物を捨てる作法」に注目する

■葬送儀礼 ~埋葬後、草履・草鞋等を捨てる行為~
■厄落としと履物
■婚礼 ~嫁の履物を捨てる~
■通過儀礼(葬儀・厄年・婚礼)まとめ
 ・▲余談 ~本当にそうだろうか?~
■疫病送り ~人々の祈りと履物~
 ・▲疱瘡送り
 ・▲道切~大草履・大草鞋~
■疫病送りまとめ

◆改めて考古学~出土下駄を考える~

■疫病神と馬
■足跡の想定・・・強く踏み込むということ

・第三章 編み余りの草履の謎

◆編み余りを残した草履について

■編み余りの草履
■編み途中の草履の代表格 足半
■尻切(しきれ)を理解する
 ・▲尻切と雪駄の違い
■足半に礼儀無し ~足半が許された理由~
 ・▲武士の作法
 ・▲長草履と半草履
 ・▲大きな脱線~ 千利休と雪駄と下駄 ~
 ・▲路次と履物
 ・▲馬下駄の登場と路地下駄の存在
■地位と履物 ~相撲 力士や行事の足元~
■では、足半はどうなったのか?
■下駄の幅と地位の関係

◆改めて編み余りの意味を考える

■「ゲゲ」を読み解く
■放射草履を考える
 ・▲ヒントはクツの製作過程にあった
■鼻緒編 緒太から細鼻緒へ

◆あとがき


序論 ~youtube発信活動とそれを止めたもの~

個人的な事になるが、2020年から22年にかけて毎週のようにyoutubeを更新していた時期があった。
ちょうど新型コロナウイルスによるお祭り中止・各式典中止などといった状況から履物業界全体が落ち込み、暇を持て余していた時期でもあり、その時間をなんとか有効活用しようと手探りで始めたコンテンツだった。
発信するためであったのは事実だが、何より履物史を勉強していく事がその時の私には非常に楽しかったのである。
結果的にyoutubeで紹介してきた履物ネタの数々は多くのお客様にも「面白かった!」といった感想を頂く事が多く、反響を頂きありがたい限りだった。
そのおかげで現在でも「youtubeの更新、楽しみにしています」とありがたいお声掛けを頂いている。

私としては更新を止めた大きなキッカケとなったものがある。
2022年春、同成社より刊行された本村充保・著「下駄の考古学」という本がそれだ。
今まで私が学んできたものはいわゆる文献や伝承・言葉といったものから歴史を辿っていく「民俗学」であり、
その本はもちろん「考古学」。
いわずもがな、遺跡から出土する物がどのように利用されたものかを考えていく学問になる。
「下駄」という題材は同じであっても、アプローチの方法が変われば見方が変わってくる、というのはある意味当然のところなのかもしれない。
しかし、今まで(素人ながら)民俗学に沿った履物を勉強してきた身にとって、考古学側の見解は刺激が多く衝撃的だった。

食い違う、というよりも学んで頭に入っていた事がひっくり返るような。
今までのは一体なんだったんだ?と感じる事も多かった。
そうなると、自分がこれまでやっていた発信活動も意味をなさなくなってしまう気がした。
何より、自分の主張・考えが根本から揺らいでいくのを感じた。
一度こういった心境になってしまうとなかなか再始動することは難しい。

しかし。
発信は止めたものの、履物を学ぶという事は止めなかった。
私は履物について深く学んでいく事が何より楽しかった。
自分の主張や考えは大きく崩れ落ちた半面、そこに新たな強烈な課題が生まれたのである。
むしろ私はその課題に立ち向かう面白さを知った。
私は勝手に「下駄の考古学」・本村説の検証を始めたのである・・・


民俗学側に足りないものは何か

ここまでの私の中の履物史は民俗学の先人達の残した研究資料から得た情報を吸収したに過ぎなかった。
偉大な先人達の研究結果を知り、単純にその履物の進化・変遷過程に自分の妄想を膨らませていたのである。
今思うと先人達の研究結果を私が勘違いした、というのも含まれているものの、 それでも、考古学から見る履物の移り変わりと、民俗学からみる履物の移り変わりは違う。
考古学から見る下駄、「下駄の考古学」で明らかにされた下駄の出土傾向について、私が特に気になったのは
・下駄は祭祀遺物と共に出土する傾向にある(5世紀~9世紀ごろ)
ということである。
これは「下駄:神のはきもの」という本の中で秋田氏も同様の主張をされているのだが、本村氏の方がデータ数も多くより明確な傾向を示しているように感じた。
それに対して民俗学側の履物に関する先行研究の中には、神事・仏事・信仰といったものに関する考察はほとんど無いと言って良い状態なのである。
少なくとも、その時点での私の目には「信仰と履物」といった目線の先行研究を見た事が無かった。

だからこそ、ここに私は大きな疑問を持つことになった。
確かに、5~9世紀ごろの下駄の使われ方を「文献や伝承で追う」としても、その頃に書かれた資料は限られるため、文献から履物の歴史を追う事、つまり民俗学からは難しい領域になってくるのではないかと思う。
それはある意味でそれ以降祭祀遺物との関連性が途切れるという考古学の主張と民俗学側に信仰的な研究が見られない、という点で一致するといえばそう見えるかもしれない。

ただ、下駄が出土し始める時期には明確に祭祀との関りがあるのに、その後一気に忘れられるような事が起こり得るのか?という疑問がある。
例えば、下駄ではなく草履や草鞋になっていたとしたら・・・
これは逆に考古学では追いにくい素材になってしまうのではないか。
だからこそ、考古学だけではなく、改めて「履物と信仰(祭祀)」について文献、言い伝え等からのアプローチが必要になってくるのではないかと感じたのである。

これまでの民俗学から見る履物史は現代的に違和感のない「履物の進化を追う」というような形になっていると思う。
履物の構造や名称によって分別され、その機能の変遷を追いかけるものが多い。
それはある意味当然のアプローチである。
何故履物を履くのか?
という問いに対して、今の時代に生きる私達が答えるならば、
それは「足を保護するため」であり「ファッション」でもあり「歩行能力を向上させるため」でもあるだろう。
これらは現代人が当たり前にイメージできる「履物の機能」である。
だからこそ我々が持つ履物に対する価値観に沿って、古くからある履物の種類や構造を並べて「日本人は履物をこのように変化・進化させてきた」と述べた方がわかりやすい。

しかし。
「下駄が履かれ始めた時期から数世紀は祭祀との関連性が高い」
このような前提があるとしたら、
「何故履物を履くのか?」という問いに対する答えが変わってくるのではないだろうか。
そこに求めるのは履物の機能だけでなく、祭祀における必要性(役割)が加わってくる。
その履物の役割を知るためには、日本の信仰や考え方への理解が必要になってくるのではないだろうか。
つまり、これから期待されるのは機能的な面に着目した履物史ではなく、日本の信仰と関連した履物の考え方が必要になってくる。
少なくとも私は、そこに突破口があるように感じた。

履物史に見える履物の中で「なぜこんな形に作ったんだろう?」と感じるものは多くある。
それらはこれまでの研究の中で「粗末な草履」などという表現すらされている場合もある。
そういった不思議な形をした履物の意味が、もしかしたら、なぜこんな形に作ったのか?が、見えてくるのかもしれない。
ただ、そんな「もしかしたら」のために、素人ながら妄想を始めたわけである。


清浄性を保つための履物

まずは「下駄の考古学」・本村説の紹介をしなければ話が進んでいかないと思う。
下駄の出土傾向と祭祀場の関係を指摘しつつ、何故下駄が祭祀場から出土するのか、を考察している。
本を読んで頂くのがわかりやすいかと思うが、ここでは少しだけ引用させて頂くと

祭祀を執行する際に清めた身体、より具体的には足を汚さないための道具、それこそが下駄であり、
「穢れ」から足を守り、祭祀の清浄性を担保する舞台装置だったと考えている。

出版:同成社「下駄の考古学」本村充保著 p73



としている。

初めて読んだ時は頭になかなか入ってこないほど、不思議な感覚になってくる。
それでも、信仰的な要素を加えていくとなると、このような表現にならざるを得ないし、理解できないというのは自分の知識不足によるものだと感じた。
祭祀とは何か?
穢れとは何か?
清浄性とは何か?
このような疑問が次々に出てくる。

まずはこういった所から理解していかないといけなかった。

祭祀とは少し表現が難しくなっているが、いわゆる「お祭り」である。
神様を祭ること。
これは現在でも地元の祭礼に参加される方も当然いらっしゃるだろうし、出店が好き、御神輿が好き、というような
様々な形でお祭りに関わってきた人の方が多い事と思う。
何より我々の扱う和装履物の大半はこのお祭り関係である、と言っても大きく的を外していないような気もする。
問題は「清浄性を保つために履く」か?ということである。

ここでいう「清浄性」、「清浄」というのはどういう状態を指しているのだろうか?

辞書によると

清浄:清らかでけがれのないこと。また、そのさま。


goo辞書

となる。

この清浄を尊ぶのが神道である、とよく言われる。

祭りへ関わる人は物忌・斎戒といった「飲食・行動を慎み、沐浴をし心身を清める期間」を取らねばならないという決まりが昔からある。
その期間は祭りの規模によっても異なり、大きな祭りの場合、祭りの1か月前から行動を慎まなければならないということになる。
本村氏のいう所の「祭祀を執行する際に清めた身体」とはそういった状態を指しているのだろう。
期間はどうあれ、飲食・行動を慎み、沐浴をし、心身共に清らかな状態になった。
その状態で外を素足で歩く事は無いのではないか。
その際に下駄が履かれたのではないか。
下駄が、地面と足の間に入る事によって、履く者の清浄さが保たれたのではないか。

こう考えているのだと私は感じた。
ここに、説得力も感じたのである。
しかし。
そうだとしたら。
意識が薄くなっているのかもしれないが、今でもこの物忌であるとか斎戒といった作法は現在まで続いていると言って良いものになるだろう。
その際の履物はどうなっているのだろうか。

これは本来なら民俗学の方で明かされるはずなのである。

ただ、そういった事を指摘しているような資料は見当たらない。
少なくとも私の目に入ってこなかった・・・
そこで、自分で調べ始めていくことになる。


神事の足元に注目してみる

先の物忌の期間が1か月間となるのは「大祀」といって最も重要な祭祀になる。
延喜式によると「大嘗祭」がこれにあたり、大祀はこの大嘗祭のみになる。
大嘗祭とは天皇即位後に行なう一世に一度の宮中祭祀である。

大嘗祭に関しては儀式次第が多く残されているため、その作法は追いやすい。
しかし、大嘗祭そのものの話をしてもなかなか進んでいかない、ということと、脱線しすぎる気がする。
話を省略する形になるものの、肝心なところだけを抜き出すようにする。
その祭祀中の天皇の足元に注目してみると・・・

廻立殿と呼ばれる祭祀直前に沐浴を行なう場所から悠紀殿、主基殿という儀式の中心となる建物まで移動する際の足元が・・・裸足なのである。

履物を追う私からすれば非常に残念で他ならないのだが、これは事実であり、おそらく平安時代のそれから(いやそれ以前から?)現代まで同じように続いているものと思われる。

最も大きな、そして重要な祭りであり、尚且つその中心となっている天皇の足元が裸足なのである。
履物そのものが存在していない・・・

だが、しかし。
この時、天皇が歩くための道が作られる。
歩く直前に薦が敷かれ、そして巻き取られる。
決して他の者がその薦を踏むことは許されないという。

これは履物そのものは履いていないが、専用の道がある、ということになる。
先の本村説に乗っ取れば、
沐浴をした直後の非常に清浄な身体を保つための、【清浄な道】を作る必要があるのではないか。
という見方もできなくはない。
裸足ではあるものの、清浄な道(薦道)を歩くため、地には足をつけていないのである。

履物の役目が「地に足を付けない事」なのであれば、確かに他の手段でも代替できる。
結果的に履物は不要になるのではないか?
そんな事が頭をよぎる事例である。


地に足を付けない、という作法 ~祇園祭・他~

先の大嘗祭の作法によって、
・そもそも履物を履かない
・敷物を敷く事によって直接地に足を付ける事がない
という事例があることを知った。
そこで、言われてみれば「地に足を付けてはいけない」とされるものがある、と思った。

祇園祭の稚児である。

山鉾巡行中、注連縄を切る役目を担う「神の使い」とされる稚児は地に足を付けてはいけない、ことになっている。
そのため、稚児の移動は剛力に担がれる・馬、といった移動手段になる。

これも同じく「接地面」に何らかのもの(剛力・馬)を設けていることになる。
繰り返すが、残念ながら・・・履物ではない。
ただ、ここでもはっきりと清浄な身体(稚児)を保つべく、接地面の間に入るもの(剛力・馬)が用意されている事になる。

調べてみると他にも神事の際に稚児が中心となるお祭りは多くあり、
同じように地に足を付けてはいけないとされ、剛力(多くの場合父親)によって担がれて移動するという例が確認できる。
また、稚児舞を踊る稚児も同様に「土を踏まない」といった表現がされ、中には「土を踏まないように足駄を履かせる」といった事まで伝えているものがある。
これらの例に頼れば、やはり何らかの接地面があれば良いということと、その「接地面」の中に履物(足駄)が含まれると推測できる。


以下に参考資料をまとめておく。


熊野本宮・湯登神事

男神子は馬に乗るか下馬しても人に負はせ決して土を踏ませぬことになっている。


『國學院雜誌』32(4)(380),國學院大學,1926-04. 国立国会図書館デジタルコレクション 鹿島神宮祭頭の土俗學的考察 中山太郎

稚児が大人の肩車に乗って舞台入りし、芸能の終了するまで土を踏まない禁忌の姿を伝承している


文化庁 編『文化庁月報』(2)(161),ぎょうせい,1982-02. 国立国会図書館デジタルコレクション

土を踏まないように足駄を使用するなど精進潔斎をする。


『無形文化財・民俗文化財要覧』昭和56年(54.12~57.1),文化庁文化財保護部無形文化民俗文化課,[1982]. 国立国会図書館デジタルコレクション

もう一つ、「地に付けてはならない」ものとして自分の意識の中にあるものがあった。

御神輿である。

これは決して地面に置いてはならないとされ、祭りで担ぎ手の休憩時には木製の台(ウマと呼ばれる)を置き、そこに神輿を置く事になる。
私の極近い地域で神輿を直置きにするところがあるが、その光景を見て絶句する人の方が多く、地面と神輿の接地面としてのウマを使う所の方が多いように感じる。

神輿は当然ながら神の乗る乗物である。
その昔は天皇などごく限られた人の乗物であったという。
こういった移動方法もまた、「履物」の必要性が薄れていくような気がしてならない。

脱線して輿について書かれた本を読んでみると、日本は「車」の発展が遅いという。
どうしても砂埃を巻き上げてしまう「車」よりも人力で運べる「輿」の方が清浄さが高い、と考えたのではないか。
そんな考察を目にしてまさに、このテーマの通りだな、と感じてしまう。

とにかく地から遠ざけたい、少なからず直接触れてはならないもの、という意識があるように思う。
それほど地面は汚いもの、穢れているものとして考えていたのだろうか・・・


■履物は不要なのか?

履物を追いかけるつもりが、全く履物が現れない例を追いかけてきた。
履物は出てこないものの、そこにはしっかりとなんらかの「接地面」があったように思う。
これらの「接地面」を見る限り、履物は不要なのではないか?という流れになってくる。
ここで出てくるのは専用の道となる「薦」であり、地に足を付けられない稚児を担ぐ「剛力」、そして「馬」になる。
いずれも当然ながら履物ではない。
ただ、それぞれに主要人物の清浄性を保つ手段を取られていると感じる。
ここで私にとって重要なのは。
【清浄性を保つ、という考え方は強く感じるものの、その対策としての「履物」が浮かんでこない】
ということになる。
※わずか一例「土を踏まないために足駄」という例があるのみ・・・

このように履物が必要なのではなく「接地面があれば良い」ということであれば、 追うべきは履物だけではなくなってしまう。
そもそものキッカケとなっている「下駄らしき履物」の存在が伺えずに他の選択肢が増えていく・・・
清浄性を保つための履物を探していたはずが、(履物以外の)代替物で良いじゃないか、となってしまっては、
ある意味で、9世紀頃まで祭祀遺物と共に出土する(その先は傾向が薄れるor無い)、としている考古学とも一致するものの、モヤモヤが多いに残る。

私は少なからず履物を知りたいのであって、乗物(馬・輿)や薦道といったものを調べたいのではない。
なかなか他の選択肢まで追う事は荷が重く、この方向性で進める事は難しいのではないかと感じた。

おおいに勉強にはなったものの、方向性を変えなければならなかった。

ただ、あえてこの無駄な方向に進めた自分の軌跡をここに書いたのは、
後々になって、少しづつこの感覚がわかるようにもなってきたからである。
おそらく「清浄性を保つため」というのは履物の持つ役割の一つになり得る、と思っている。


◆浄履と草履

本村説に則り、清浄さと履物の関連性を確かめるべく、神事の際の足元に注目してみたのものの、思ったような成果は得られなかった。
履物が境となってその役目を果たすというよりも、敷物・乗物といった別の接地面の登場の方が多く、履物の例の方が少なく、難しく感じた、といった方が良いかもしれない。
そのため、今度は異なる視点から清浄さと履物についてアプローチしてみることにする。
先行研究ではその言葉そのものの存在が指摘される事は多いものの、なかなかその履物について語られていないという言葉がある。
その言葉とは「浄履(じょうり)」である。
その発音からなんとなく想像できると思うが、
じょうり(じょり)→ぞうり
といった言葉の変化があったのではないかと推測されている。
しかし、民俗学の研究者によっては見解が異なるところも確認できる。
浄履と草履は同一であり、単に訛りであろう。とする見解。
浄履と草履は意味的に似ているものの、同一とは判断できない。とする慎重派の見解もある。

今回の「清浄性を保つための履物」というテーマにおいて、その漢字「浄履」はこれ以上ないほど、ピッタリに感じる。
読んで字の如く。
浄い(きよい)履物である。
辞典を引いてみれば

浄履:けがれざる履物


平凡社 編『大辞典』第14巻,平凡社,昭和9-10. 国立国会図書館デジタルコレクション

と説明されている。
これは今回のテーマとしてはあまりにもピッタリであり、この言葉の差す履物を追う事が出来れば・・・
もしかしたら履物と清浄さの関係性を知る事ができるのではないか、と思ったのである。
それに加えて。考古学との関連性はどうであれ、
「浄履」という言葉に関する研究が少ない以上、何らかの新しい要素になる可能性があると感じたのである。


■浄履を知る

浄履という言葉を知ろうと先行研究を漁ってみても特に大きな項を設けて語られている事は無い。
古く、平安時代初期「貞観儀式」に表れる「浄履」と書かれている一語が紹介される事が多いが、それぐらいである。
先にも挙げたが、じょうりとぞうりの発音をとり、同じ意味であろうと推測されるのみである。
ここではもう少し踏み込んでみていきたい。
資料を探って「浄履」と表記されている例を挙げてみる。


※↓クリックで記述詳細表示されます


有職故実の研究家である田安宗武の「服飾管見」
辞書である「伊呂波字類抄」を除いた時、
私が確認したのはわずか7例にすぎないものの、そのうち3例が受戒式での作法に登場するのが確認できる。
※「東大寺要録」「中院流作集」「太上法王御受戒記」
それ以外の例もいずれも仏事であり、堂内へ入る時に必要な履物であった、と考えられる。
またここで挙げた例の中では「法然上人行状絵図」のみ少し時代が遅れるが、そのほとんどが平安時代~鎌倉初期の文献であり、「浄履」という言葉が使用されていた時期は平安時代前後に限られるのかもしれない。

内容を見ていくと、中でも注目なのは「二十六條式」、「東長儀」である。
浄履そのものがどういう履物かはわからないものの、他の履物の記載もありその用途等が想像しやすい。
一つづつ見ていきたい。


▲「二十六條式」

まず「二十六條式」である。
この規律は970年に良源によって、増える僧侶と次第に乱れる秩序を守るために作られた規律である。
その中に上堂する際の作法が書かれた項があり、履物を追う私からすると興味深い一文となっている。
※以下『』内筆者訳
『衆僧は木履を着けて上堂する事を停止する』
木履とはぼくり、つまり今の時代で言うところの下駄であろうと読む事はできる。
ただ、きぐつ、と読ませる可能性もある。
しかし木製の履物を履いて寺に来てはならない、という意味であることは間違いないだろう。

代わりに何を履いて行けばいいのか?
『衆僧の上堂 必ず革履を用いる』
上堂には木履ではなく、革履を履かねばならない。
革履は「かわぐつ」と読むと思われる。
現代の靴ほどではないものの、爪先の覆いがある、革製の履物だったと推測される。
『戒律に指する所、過ぎ去った昔に存す』
『しかし、近代の僧多く木履を着く事、これ舊跡(昔のこと)に背き、古風を忘れる。」
『およそその心有るも 誰か歎き念はず』
『よって、今制を立つ』
昔は言わずもがな革履で来ていたはずなのに、今の僧は木履を履いてくる。
現代に通じる「今時の若いモンは・・・」というような嘆き節である。
だから、制度を作る、と。

『自ら堂に参るには必ず革子を着け 外従 内に入には 浄履を用いる宜』
「革子」と表現されている言葉がよくわからないのだが、
いわゆる草履持ち役ではないだろうか。
堂に行く時には必ず草履持ちを従えて、内に入る時は「浄履」を履くようにしなさい。
※履物を履き替えるために草履持ちが必要になるのではないか

『仏堂之内に於いて 革履を用いるべからず事 経律に載 また依憑すべき』
仏堂の中で革履を履いてはいけないのは経律(仏の説法と戒律)に載っている。
『違反すること有れば僧座に着くなかれ 沙彌(最も階級の低い僧)に次ぐものになる』
以上が「二十六條式」の内容であるが、上堂の際には革履を履く事、木履禁止令が出ている。
革履・木履といった履物の全容はわからないものの、堂内に入る際は「浄履」を履く必要があり、内と外で履物を履き替えている事がわかる。

ここで私が注目している「浄履」は堂内で履く履物らしい事がわかった。


▲「東長儀」

次に「東長儀」を見てみる。
「二十六條式」から200年近く過ぎている事もあるが、表現の違いが伺える。
『戸外に於いて裏無を着く 内陣に入るを故実と稱す』
堂外で履物を変えて内へと入って行くのは確かに「二十六條式」と同じである。
しかし。
『是れ法度に乖く』
『厳に御願を重んじ裏無を着すべきや、爭そう』
裏無を履く事が「法度に乖く」ようになってしまっている。
故実を守るか、法度を守るべきか・・・というところ・・・
『若し浄履を用うるならば、挿鞋を着すべきなり』
浄履が履きたければ、挿鞋にしなさい。ということになった。
・・・というのが「東長儀」の浄履に関する内容である。
「二十六條式」と噛みあう点と、新たな法度の登場により履物が変わったと思われる事がわかる。
また「東長儀」でははっきりと「裏無」と「浄履」が同義で使われているため、 浄履=裏無であることがわかる。
裏無(ウラナシ)は底を付けない、一枚物の草履の事を指す。
我々のイメージでは、単純な藁草履のような構造をしている草履になる。

このように裏無と挿鞋のイメージを並べると、明らかに別の履物であることがよく分かる。
裏無は草履だが、挿鞋とはその文字(鞋)が表すようにクツなのである。
思えば、葬儀などで僧侶の足元を見るとスリッパに錦を張ったようなものを履いている人を見かける事がある。
これはおそらく挿鞋の代わりであって、宗派ごとの考え方もあるのだろうが、作法的に正しいという判断で履かれている履物なのだと思う。
堂内空間の履物を調べていくと漢字は異なるものの「草鞋(そうかい)」と表記される履物が履かれている例は非常に多く、特に例を挙げる必要も無いのではないかと感じるぐらいである。
先の例にも挙げたが、それは現代にまで続いている、とも言える。
昭和24年に刊行された本だが草鞋について構造・履かれ方が書かれている。

草鞋(そうかい)
木の履(くつ)である。草鞋は土間又は板の間で履くもので、畳の上や砂地では用いないものである。

鼻高(びこう)
草鞋と全く同じ形であって、金襴を張らないで黒漆塗のものである。これは堂外砂地のみの着用である。


岩原諦信 著 ほか『真言宗諸法会作法解説』上,高野山出版社,昭和24年. 国立国会図書館デジタルコレクション

色々な情報があるが、草鞋(そうかい)はどちらかといえば室内履きと言って良いだろう。
これが浄履の代わりとなったのは先の「東長儀」に書かれているとおりである。
ある意味で、浄履は土間・板の間で履く履物だった、と解釈する事もできる。
また、今まで触れて来なかったが、内履きの草鞋に対して外履きとして履かれるのが鼻高である。
資料を色々とみてみると「中門の内より鼻高から草鞋に履き替える」といった記述は多い。

先の「真言宗諸法会作法解説」にある通り、草鞋も鼻高も「木履(きぐつ)」なのである。
これは先の「二十六條式」に見る「木履停止」に反するものになっている。
「東長儀」の内容の通り、故実を守ると法度に背く事になってしまうため、議論になった事が想像できる。

これらをまとめると。
「二十六條式」(970年)から「東長儀」(時期不明、著者:守覚/親王( しゅかく/しんのう )は1150生~1202没)までの間に制度が変わり、結果的に裏無・浄履は履く事が許されなくなり、挿鞋を履く事を促されるようになった。
それはおそらく現代にも残る作法となっている事が考えられる。

「浄履」に話を戻そう。
いくつかの例をまとめると
・堂内に入る直前(中門・庇等)で浄履に履き替えていること
・東長儀から浄履は裏無であると考えられること
これらから浄履=草履という意味にも感じる。
ただ、正確には浄履=上草履ではないだろうか。
現代感覚でいうところの室内履きの位置付けであると感じる。
ただ「室内履き」という表現では今と平安~鎌倉時代ではズレている事もよくわかる。
裏無に履き替える「中門」は現代感覚ではまだ「外」である。

中門イメージ

なぜ、そこで履き替える必要があるのか・・・また別の疑問が浮かんでくる。

建物に入るその直前に履物を履き替える理由。
これを考えてみても
・自らの清浄さを保つため
・空間の清浄さを保つため
こういった事しか思い浮かばない。

履物を履く理由、履き替える理由が「自らを汚さぬため」だとしたら、既に履物を履いている(いわゆる外履きだが・・・)のだから、わざわざ履き替える必要が無い。
その直前で履き替えるということは、自分のためではなくその空間に対しての作法になる。
つまり、空間を汚さないため。になるのではないだろうか。

逆に言えば、それまでの空間(外)と中門の内(建物内、囲いの内)では建物内の方が清浄である、という意識を感じる。
清浄なものを汚してはならない意識。
これはどこからくるのだろうか。


蓮台 ~仏が地に触れぬ理由~

神様というのは見た事もない。
それを表すものもお目に掛かった事が無い。
強いて言うならば御神輿に御魂を入れる瞬間、目隠しの先に神がいる、という状況にはいた事はあるものの、しかし、直接目に入る事はないのである。
それに対して仏様は割と色々な所で見かける。
大仏、仏像といったものがそれであるならば・・・。
履物を追う人はそんなところでも足元を見る。
仏像の足元は?・・・と注目した時期があった。
結果は・・・ほとんどの場合立つにしろ、座るにしろ、裸足である事が多い。
ただ、そのほとんどが蓮の花の上に表現されていた。
ここでも裸足で、必要なのは蓮の花か・・・と思わされたのだが、調べてみると、どうやら本当にそうであるらしい。
この仏を支える蓮の花を蓮台という。
この蓮台について「大智度論」では

問曰。諸床可坐何必蓮華。
答曰。床爲世界白衣坐法。
又以蓮華軟淨。
欲現神力能坐其上令花不壞故


大蔵経テキストデータベース:T1509_.25.0115c26~T1509_.25.0115c28行目

問いて曰く、諸床に坐すべきに何ぞ必ずしも蓮華ならんや。
答えて曰く、床は世界白衣の坐法たり。
また蓮華の軟浄なるを以て、神力を現じて能く其上に坐し、
花をして壊せざらしめんと欲するの故なり。


ガンダーラ仏と蓮華座 著:安田治樹 p13より、訳引用

としている。
つまり、床は白衣(俗)の座るところであり、仏に不相応。
清浄の象徴である蓮華に座る。
(花の上に座っても神通力によって花が壊れる事が無い)

汚い泥にまみれながらも綺麗な花を咲かせる蓮の花を仏教では清浄の象徴としている。
その清浄な蓮華の上はもちろん清浄なのだろう。
仏は他の者とは異なった清浄空間(蓮華)に座す。
地に触れない理由と共に、触れている面が清浄であることをよく表していると思う。

堂内空間に話を戻せば、まさにそこは仏のための空間になる。
これだけ清浄を重んじているからこそ、空間そのものを清浄に保つ努力が感じられ、 尚且つ入堂時に清浄さを高める作法があると考えられる。
仏の空間に入るその時、その空間を汚さぬように浄履へと履き替える。
この履物履き替えの作法が生まれたのも自然な発想だったのではないだろうか。


■草履は蓮台の代わりとなり得る

履物を蓮華に例えている例はある。
仏教から少し離れているが、仏教も取り入れた日本独自の信仰である修験道。
山伏の必要とする道具の中に八乳草鞋がある。
通常我々が履く草鞋は四乳であるが、乳の数を増やし八乳にした草鞋が十六道具に数えられ、その草鞋をもって「八葉の蓮華(蓮台)」と表現している。
また、平安時代の仏教説話集「地蔵菩薩霊験記」では「杖頭地蔵の事」の中に下記の記述がある。

木を求めて3尺の杖頭に地蔵の像を造り奉り、草履一足を添て母の墓の傍に置き奉り白しけるは、
是の追善によりて縦ひ宿善なくして刀山に赴き給ふとも此の草履をば蓮臺として剣樹の峰を飛、猶悪因にひかれて黒闇に沈み給ふとも、此の木杖を先達として・・・(略)


実睿, 良観 著『地蔵菩薩霊験記』,藤井佐兵衛,昭和13. 国立国会図書館デジタルコレクション

母親の追善供養に杖と草履を供えると、死者は剣樹を踏むことなく、また夜道にも迷わないという。
ここでは草履が蓮台へと変化し剣樹の峰を飛ぶ、と表現されている。

葬儀の際に死者に旅支度をさせるシーンが頭に浮かばないだろうか。
その中に杖もあれば履物(草履だったり草鞋だったり)もある。
それぞれの役目が「地蔵菩薩霊験記」の書かれた頃から考えられていたのかもしれない・・・と考えるだけでも興味深いものがある。

草履の役目は剣樹の峰を越えること。
草履は蓮台だという。
ここで私が注目したいのは草履は清浄を示す道具(履物)として扱われている事である。


また「ゲンゲンタロウ」という名の草履から研究報告をされている方もいる。
ゲンゲ→レンゲとなり、蓮華草履という草履の存在も明かす。
またゲゲと呼ばれる草履とゲンゲンタロウが似ている事から昔からの草履の存在を想像している。
このように話を進めた後だと内容が理解しやすく、その通りのような気になる興味深い研究である。

ゲンゲンタロウという履物について / 山口賢俊/p10~21『高志路』(248),新潟県民俗学会,1978-02. 国立国会図書館デジタルコレクション

このように、草履の元を辿っていくと蓮の花に辿り着くという感覚がある。
それは蓮台として履く者の清浄を示すものであって、それこそが重要な草履の役目として考えられていたのではないだろうか。
また、清浄な履物に履き替える意識は対空間の作法にもなっている。
自分のみならず、空間の清浄さも保つ事が出来ると考えていたのではないだろうか。
その先に見えるのは、ここでは仏様への作法と言い換えてもいいのかもしれない。


■履物を履き替える意識

今回仏教の教えを主に紹介して話を進めているものの、日本人にとって履物を履き替える、という事は現代においてもそれほど珍しいことではないだろう。
仏教からその作法が広まったか、というのはわからないものの、この履物を履き替える意識は色々な所で確認する事ができる。
例えば、履き替える場所ではないが、履物を履き替えるために必要になる存在が「草履取り」である。
浄履を懐で温めつつ、脱いだ履物とサッと入れ替えて履き替えさせる。
これが履物の脱ぎ履きに非常に大事な存在となるのではないだろうか。
我々にとっては「草履取り」と表現する方が馴染みがあるが、色々と昔の書物を漁ってみると「御沓役」といった沓(くつ)を持つ役目の存在が儀式書等にも見られる。
それだけ履物に意味を持たせ、履物を履き替えるという事が重視されてきた時代もあったように思う。
その重要さは次第に薄れていくわけだが、江戸時代まで話を進めてみても、なお履物を履き替える意識は感じる事ができる。
福草履、中抜き草履、阿波草履、すべ草履、わらみご草履など、色々な呼び方がある草履と、先に挙げた草履取りの存在がそれを物語っている。
この草履に関して守貞漫稿に詳しい記述があるため、引用する。

又中抜草履と云あり表同前にて聊か粗也
緒藁に白紙を巻き縄になひてつける
緒太とも云
専ら持草履也
僕を従ふ者これを携へしむる也
江戸の福草履と同製也
草履取と云奴携(レ)之也
中ぬき草り俗に阿波草履と云


喜多川守貞 著『類聚近世風俗志 : 原名守貞漫稿』,更生閣書店,昭和9. 国立国会図書館デジタルコレクション p393

まずどういった草履なのか。
「表同前」は説明部分を切り取ってしまっているため、この引用からでは読み取れないが、 藁の袴を取り、中の芯を使用して編まれた草履表の事を言っている。

私は先のyoutubeにおいて中抜き草履の考察している。
結論から言えば全くの勘違いだったと言わざるを得ない。
ここにお詫びをしておく。
その後、自分で藁草履を編んでみたことがある。
藁を用意し、自分で藁を仕込む。
まず、袴を取り、芯を抜く。
その作業を永遠とやっている時に気づいた。
「中」の芯を「抜」いて使うから「中抜草履」だと。

これに対して守貞漫稿では袴がついたまま、そのまま草履にしたものを「藁草履」「冷飯草履」といった表現をしている。
現代において「藁草履」と認識されているもののほとんどは「中抜草履」だと言って良いのではないかと思う。
より丁寧な作られ方をする藁草履(中抜)の作り方が教科書的に現代まで残っているのだと思われる。

福草履、中抜草履、といった各地で色々と名を変えて呼ばれるこの草履は、そういった丁寧に作られた藁草履を指す。
場合によっては鼻緒をより太くし「緒太」とする事もあった。

これは「持草履」である、と。
「僕を従ふ者これを携へしむる也」
「草履取と云奴携(レ)之也」
草履取りに持たせておく草履なのだと言っている。

守貞漫稿には別に「福草履」の項も設けてあるので、これも引用する

京阪に云中抜草履同物也
士民持草履と號して奴僕に持せ歩行するは此草履を専とす
京阪にては阿波草履共云
大名稀に歩行の時は用(レ)之
御旗本以下及び陪臣も雪踏を履たる者城門より内は用(レ)之
貴人の家に入るに用(レ)之
蓋必らずとせず
無(レ)僕の人は不(レ)能(レ)用(レ)之者雪踏の儘城内尊貴の家にも入る


喜多川守貞 著『類聚近世風俗志 : 原名守貞漫稿』,更生閣書店,昭和9. 国立国会図書館デジタルコレクション p399

履かれ方としては
「城門より内」
「貴人の家に入るに之を用いる」
となる。
雪踏を履いていたものが、建物に入る前に草履取に持たせていた福草履に履き替える。
これはまるで、先ほどから見てきた仏教作法と同じように思う。
入堂する前に裏無草履へと履き替える。これを故実と称す。
城門、中門というのも重なる。
これも現代人にとっては建物の中という意識はないものの、その空間の境(門)から履物を履き替えることによって、その内側の清浄さを保とう、けがしてはならないと。
それこそが目上の人に対する礼儀作法になる、と考えられていたのではないかと想像する。

ただ、既に江戸時代まで進んでいる事もあり、
「無(レ)僕の人は不(レ)能(レ)用(レ)之」
と、軟化している事も伺える。

このようにこれまで見てきた仏教作法と特に変わった所がみられないほど、同じように江戸時代まで武士の作法としてその使われ方・履き替え方が存在している。
ここでは「浄履」や「裏無」といった表現方法は全く見られないが、 その意味合いとしては、裏無は福草履、浄履は持草履として伝わっている事がよくわかる。
そしてこれらは自らの清浄さを保つため、ではなく、空間を汚さないため、といった意識から生まれる履き替え作法である事もこれまで通りと言えるのではないだろうか。

はじめの問題である考古学の出土下駄、本村説に戻れば。
清浄さを保つ、という履物機能は確かに感じる事ができる。
しかし、その役目はほとんどの場合、草履が担ってきているのではないだろうか。
少なくとも浄履という言葉に下駄が含まれることはないのである。
やはりこういったアプローチの仕方では考古学との一致は難しいのではないかと感じた。

ただ、履物はけがれているもの(人・空間)と清らかなもの(空間・人(神仏))の境界にあり、人にせよ空間にせよ、清らかなものを汚さない効果が期待されていた事を強く感じた。


◆第二章 ~履物を捨てる作法

清浄さを保つといった効果を履物に求める事はできるものの、その役目が下駄にあった、と言い切ることは難しく感じた。
別のアプローチからも見る必要があるだろう。
そもそも、なぜ下駄は祭祀遺物と共に出土するのだろうか。
履いて儀式に参加したのであれば、そのまま履いて帰るだろう、というのが現代人の考え方ではないだろうか。
祭祀遺物と共に出土するということは、そのまま履いて帰るという事はせずに、その場に捨てていく、という事になるだろう。
そこで「履物を捨てる作法」に注目してみたい。
これは現代人から思えば非常に不思議な光景に見えるが、 実は履物を捨てる作法は現代においても容易に確認する事ができる。
履物を捨てる作法があるのは
★葬儀
★厄落とし
★婚礼
★上棟式
★疫病送り
等が挙げられる。
これらの中で、万が一にも「祭祀遺物と共に出土」する可能性があるのは疫病送りだろう。

しかし、ここでは履物を捨てる例が最も多い葬送儀礼から見ていく事とする。
考古学に繋がらずとも、こういった民俗学的な報告も少なく、「履物を捨てる」というまじない行為がまとめられた物も見た事が無い。
どなたかの参考になればという思いで進めていくこととする。


■葬送儀礼 ~埋葬後、草履・草鞋等を捨てる行為~

履物を捨てる行為が儀礼的に確認できるのは圧倒的に葬送儀礼が多い。
それもほぼ全国的に分布している事も確認できる。
1980年に文化庁がまとめた資料「日本民俗地図」を元に葬儀の際の履物の扱われ方を見ていきたい。


このように日本民俗地図にまとめられた内容だけでも42例が全国的に分布している。
履いていた草履や草鞋を捨てるいわれとしては「死者が憑いてこないように」という理由が伝えられている。
しかし、この理由で「なるほど!」と、手を打つことが出来るだろうか。
死んだ者が付いてくるわけがないだろう、と私はついつい考えてしまう。
そこで、他の理由を考えた事があった。
第一章で書いたように履物と清浄さの関連性を考えていたので「ケガレ」にもそれは及ぶことだろうと考えていた。
死は「ケガレ」の代表格である。
そのケガレを避けるために、そのケガレを受けた履物は捨てるべき。
このように考えた方がわかりやすいような気もした。
これもまた現代感覚だけで理解できるものではないものの、その履物の役割を想像する事ができる。
ここでも自分の清浄さを保つため・・・といったイメージ先行があったかもしれない。
しかし、そうであるなら、なぜ帰りは裸足なのか(変わりの履物を持ってくる例はあるが)
そういった事を考えてみてもなかなか一本筋が通る事はなかった。

では。
死者が憑いてくる、とはどういうことなのか。
これはどうやら日本人の霊魂観からくるものらしい。
生きている状態を肉体と魂が結合している状態とする考え方をしている。
死ぬということは、その肉体から魂が抜けるということを指す。
「死者が憑いてくる」というのは、その死者の体から抜けた魂が憑いてきてしまう、と考えているのである。
死者の魂が憑いた履物を履いて帰るわけにはいかない、だから履物を捨てる必要がある。
ここでは明らかに履物が魂の依代となってしまう、と考えられている。
中でも死者に近い者、例えば喪主、棺担ぎといった役目を担うものの履物に魂が憑きやすいと考えられているのではないだろうか。
墓に葬ったつもりが、魂と共に帰ってきてしまっては元も子もない。
故に、履物を墓に捨てて行かねばならない。
このように考えられていたのではないだろうか。

構造についてなど気になる記述が色々とあるのだがここでは触れずにおいておく。
他にこの魂に対する対応策としてさらに「鼻緒を切る、草鞋の緒を切る」といった事をしている。
例え履物に憑いていたとしても、履物の機能を失わせる事によって、そこから動けなくする、といった事を意味するのであろう。
ただ捨てるだけよりも、より入念な作法であると感じる。

感覚的には死者の魂と言っても身内のものであるのだから、むしろ止めを刺しているかのような念入りさで対策をするまでもない、と思ってしまうところもあるものの。
これは現代人と先の日本人の感覚差なのかもしれない。
その価値観の違いはどうあれ、 葬送儀礼における履物の役割は死者の魂の依代の一種として考えられていたのだと感じる事が出来る。
強いて第一章との繋がりを言うのであれば、 履物を蓮台と捉え、霊がそれを依代とするのはある意味で自然な発想かもしれない。


■厄落としと履物

厄年、厄落としといった事は現代人でも気にする人も多いところではないだろうか。
地域によっても違う場合があるようだが、例としては男性25、42、61歳、女性は19、33、37、61歳といったところが一般的。
災難が起こりやすい年、として注意するべき年というような解釈だが、現代でもその厄をおそれて神社・お寺などで祓いを受ける方も多いのではないだろうか。
ここで出てくる厄落とし作法は、そういった神社仏閣で行うお祓いというよりも自分達で行う厄落とし作法になる。
簡単に表現すれば、41歳から43歳へなど一年多く年を取ったことにして年をごまかしたり(年取り)自分の形代を捨てる事によって、その年の厄から逃れようとする慣習がある。
具体的な事としては、神社・寺にお参りに行く(お祓いを受ける)、親類を呼んで酒宴する、豆やお金、身に付けているものをわざと落としてくる等がある。
葬儀においての草履ほど例が多いわけではないのだが、例をよく見ていくと、「身に付けているものを落とす」中に入るのか、草履を捨てるパターンが何例か確認できる。
代表的なのは身を清め、新しい草履を履き、氏神に参り、人知れず草履を捨てて帰るといったパターンになる。

以下に引用資料を示す。


ここでは子供の例も含まれているが、3・5・7・13といった年齢も子供の厄年として考えられている時代、地域もある。
ちょうど七五三や十三参りといった子供の成長儀礼とも重なるために現代においては「厄年」といった意識は薄れているのかもしれない。

日本民俗地図の調査では四国に例が集中しているが、その他の資料では特に定まった地域には感じない。
四国の例では「辻に捨てる」共通項があり、その他の例では神社もしくは寺といったお参り時に捨てるもしくは納めている。
ほとんどが四国だが「横緒を切る」という作法があるのも興味深い。
先に引用した國學院雜誌掲載の小川直之氏は「(草履を捨てるのは)死者埋葬時の作法であり、浅間様参りが再生儀礼」としている。

いずれにしても、草履は厄がついた自分自身の形代として扱われ、その草履の鼻緒を切り、捨てる事によって厄を落とす事が出来ると考えられていることが分かる。


■婚礼 ~嫁の履物を捨てる~

現代においては全く想像ができないほどなのだが、 嫁入りの際に履いてきた履物を捨てる、という作法がある。
これも葬儀と同じく「日本民俗地図」に例が多く載っているためこれを引用する。


葬儀の際の草履を捨てる作法ほどではないが、長野、関東、東北と広い地域にみられる。
捨てる理由は「嫁を帰さないため」である。
また、あえて抜粋したが、関西以西では「足を洗う」例が多い。
これも足元に注目している自分からすれば見逃せない例になる。
葬送儀礼の項では例が多くなりすぎるため引用しなかったが、家に入る際に足を洗う例は葬儀時にもある。
手を使って洗ってはならない、などと言われているが、それが全く同じように婚礼時にも存在している。
この意味を考えていく上で、最後に番外編として紹介した「山口県,6粭島」の説明が非常に興味深い。
これを見ると、花嫁は一度生家で死んだ状態で嫁ぎ先へと向かい、嫁ぎ先で生まれ変わるという。
「奈良県,18三尾」の例でも足を洗う行為をきっかけに「生まれ変わる」としている。
婚礼というのは生家で死に、嫁ぎ先で生まれ変わるという理解だったのだろうか。
そうであれば。確かに履物を捨てる意味も出てくるだろう。
これは厄落としに出てくる履物捨てと同じく、自分自身の形代になると考えられる。
生家に生まれてから嫁ぐまでの自分。
これを履物にのせて(のっているとして)、鼻緒を切って捨てられるのである。
これを「生まれ変わる」と言われれば、確かにそうなのかもしれない、と感じる。
魂を履物にのせ、それを捨てて、また新たな魂を入れていく、という事なのだろうか。


■通過儀礼(葬儀・厄年・婚礼)まとめ

葬儀・厄年・婚礼といった3種の通過儀礼から履物を捨てる作法に注目してきた。
簡単にまとめると
葬儀:死者が憑いてこないように(死者の魂の依代として)
厄年:(厄がついた)自分自身の形代として
婚礼:嫁を帰さぬため(生家での死:嫁ぎ前の自分の形代として)
このような理解になる。
厄年と婚礼においては自分自身の形代として、葬儀においては死者の依代となっている。
このことから履物には霊・魂といったものの依代という機能があった事が考えられる。
さらに考察をするならば、 例えば霊を神仏と同じと考えると霊も地に足を付ける事は無いのではないか。
清浄な接地面を求める故に、簡易的な接地面である履物を依代に見ているのではないだろうか。
履物を蓮台として、踏み代として、敷物として、霊は見ている。と、考えられてきたのではないか。

いずれにしても。
履物に何か見えないものがつく、と考えられていること。
そしてそれを捨てる事により、ソレとの決別を図るまじないになる、ということはわかった。


▲余談 ~本当にそうだろうか?~

あえて異論も考えてみたい。
葬儀の場合である。
葬儀の場合のみ、自分自身ではなく死者の依代となるわけだが、本当にそうだろうか。
ここでも自分自身が生まれ変わるということはないだろうか。
例えば、父親が亡くなったとして、長男が喪主、という形の場合。
その後の長男は父親の跡を継ぐ形になる。
嫡男から家督に位が上がる。
この時に「生まれ変わり」という発想をするならば、それまでの自分(嫡男としての)を捨てて、新たな位をもってのスタート、節目となる。
このような解釈も不可能ではないように思う。
その他、棺を担ぐ者なども履物を捨てる対象になる場合が多いが、これらも本来であれば親族の役目になる。
それぞれに家の中での役割が変わる存在、としても理解に難しくはないように感じる。

私は6代目として丸屋を継ぐ者である。
その昔は襲名して名を変える事もあったと聞く。
襲名というとまるで役者のようであるが、それもまた時代で感じ方・考え方が変わっているのだろう。
5代目亡き後、私がその後を継ぐ形となった。
この決定的な瞬間は葬儀、という儀式的なものをもって、始まるものではないだろうか。
そう考えると、その場に履物を捨てる事が、自分のための事のようにも感じる事ができるのである。
埋葬後、死者の跡を継ぐ、覚悟表明にも見えないだろうか・・・
もしかしたら、死者の魂をも受け継いでいるのかもしれない。
「骨噛み」といったことをしていた時代・地域もあったようである。
これは死者の魂を自分の中に取り込む行為だという。
今までの自分を捨て、死者の魂を込めて、生まれ直すとしても不思議ではない。

この考えが正しければ、例えば隠居であったり、襲名の儀といったようなものがあるのであればそこにも・・・と考えたりもしたわけだが。
おそらくそこには履物の存在はなさそうである。
意味的にはそれを示すものがあるかもしれないが、少なくとも履物を使った作法にはならない気がする。
少なくとも、色々と履物関係の単語が記載された資料を漁ってみた自分にはそんな例は一つも目に入らなかった。
さらにそこを深く追求していくのは履物から遠ざかっていく気がした。
自分の興味は履物にある。
履物、履物と思い直して路線を修正した経緯を示しておきたい。

ただ。
どちらであったとしても、履物は依代、形代として、何らかの見えないモノを載せる役目がある事は確かだと思う。


■疫病送り ~人々の祈りと履物~

疫病というのは現代人にとってもここ数年で新型コロナウイルスの流行によって随分と身近なイメージしやすいものとなった。
現代ではそれはウイルスによるもの、とわかるのだが、
かつての日本ではそれを疫病神によるもの、として考えられていた。
疫病を治す手段はその疫病神を祀ること、なのである。
具体的には桟俵に御幣や餅などを供えて疫病神を祀り、それを川へ流したり、辻へ置くといったことをする。

予防手段としては道切といって村の境に注連縄を張ったりして悪い者を中に入れないように結界を張ったりすることもある。
現代においても大きな草履や草鞋が飾られているのを一度は見た事がある人も多いのではないだろうか。

その疫病神を祀る事と草履・草鞋といった履物がどのように関係していくのか。
話に入る前に伊達政宗の疱瘡が草履によって治ったという話を引用しておきたい。

赤坂山の神
その昔、仙台藩主伊達政宗が疱瘡を病んだ。
占ったところ「北の方に赤緒の草履のある山の神がある。その草履を戴いてくると病気は良くなる」という。家来は早速北方の小祠や神社などさがし、築館の薬師に行く道の辺まできた。里人に「赤緒の草履が奉納されてるところがないか」とたずねると、「ここは赤坂であるが、その小高い丘の山の神に赤緒の草履がある」と教えられた。喜んでその草履を戴いて帰ったのでやがて政宗公の病気も良くなった。そこで伊達家から宝物が奉納され、以来この部落を「草履町」と呼ぶようになったという。
またたくまに草履町は有名になった。毎年十月十二日の祭日には、郡内はもちろん登米・佐沼・岩手県などからの参詣人でにぎわった。当時草履町では小さな草履を作り一足二文で売った。山の神には三尺・四尺という大草履がいつも奉納されていたという。講中も十組もできた。
明治37年頃まで参詣者でにぎわったが、医学の進歩と共にすたれ、大正12年頃には草履町も元の赤坂と言われるようになった。


白鳥白陽 著『栗原の遍歴』,栗原郡文化財保護委員会連絡協議会事務局,1967. 国立国会図書館デジタルコレクション p12-13

疱瘡を治すために「占い」をし、言う通りに草履を持ってきたら治り。
その草履を祀っていた神社が栄える。
しかし、時代が進むと医学の発展により疱瘡は治る病気となった。
それとともに参詣者が居なくなった・・・
これは現代人にとって非常に理解しやすいエピソードだろう。
逆に言えば、医学発展前の日本ではおまじないによって病気を治そうとしていたのである。


▲疱瘡送り ~病気平癒祈願~

疫病の流行が疫病神によるものだと考えられてきたということは先にも書いてきた。
中でも恐れられていたのは疱瘡だったように感じられる。
疱瘡神といった病気名をそのまま担った神の存在も示されるほど、それは広く認識され恐れられてきたのではないだろうか。
この疱瘡神を送り出す際に草履を供える例が確認できる。


先の伊達政宗の例が強いのか、少ない例だが、すべて東北に分布している。
ここでの紹介は省いたものの、全体的には草履ではなく馬を供えるという例も多く目に留まった。
一つだけ例を挙げておく。

わらで馬をつくりホウソウ神さまをこの馬の背にのせ、子どもの手に馬の手綱を持たせて、近くの三方の辻に送り出す。
----中略----
三方の辻を境と考え、ここまで丁重に送り出すことによって、当人をはじめその家族の健康と安全が約束されると考えていたようである。


埼玉県立歴史資料館 編『秩父の通過儀礼 : 写真と文字で綴る』,埼玉県立歴史資料館,1983.10. 国立国会図書館デジタルコレクション p161

疱瘡神を馬の背に乗せている辺り、確かに丁寧に感じる。
これまでの流れから考えると、履物、乗物等、接地面の用意が必要と考えていたのではないかと思ってしまう。
また、村の境目まで送り出す事も先の4例と共通している。
これらは疱瘡に関する例になるが、その他の病気平癒の祈願としても草履を供える姿を確認する事ができる。
その多くは先の疱瘡送りにも出てきたが、村の境、道の辻に祀られる道祖神への祈りの姿になる。
これも日本民俗地図に見られる例を引用する。

p331
岩手県
28双浜
病気を送るときはあずき飯とぞうり・わらじをあげて帰る。
日常でもそこを通るときは、小石をあげて通らねばならない。
古ぞうりやすり切れたわらじを道で拾ったら、これを必ずあげ申さねばならない。

p362
岡山県
17水内
病気で困ったときなど、わらじやぞうりを片ひら供えるとよいといっている。

p364
山口県
3西村
わらで馬の形を作って奉納し病気の平癒を祈った。

文化庁 1972 日本民俗地図 / 文化庁編 3 (信仰・社会生活)

他にも足を患った人が足を治すために草履を供える例や、旅の安全祈願に履物を道祖神に供える例があるが、ここでは病気の例のみ抜き出した。
先の疱瘡時と同様に履物ではなく「馬」の例があるのも興味深い。

道祖神は悪霊・疫病神などの侵入を防ぐ守り神として信仰されている。
ここに履物を供える姿は疱瘡送りの例とよく似ているように思う。
道の境に神を送り出す姿と、境の神に祈る姿。
これはどちらも同じようにも感じ、新旧の信仰の在り方、変化した姿なのかもしれない。
意味としては次に挙げる道切の方がわかりやすいだろう。
疫病神を筆頭に悪いものを村に入れないように注連縄を張り結界を張ることで集落を守ろうとする姿が見られる。


▲道切~大草履・大草鞋~

ここでは先に挙げた家単位・個人で行なうおまじないではなく、集落単位で行う疫病対策についてみていく。
家庭単位のおまじないよりもずっと例は多くなり、確認できる範囲も広くなる。
代表例としては、疫病神が外からやってくると考え、ムラの境に注連縄を張り結界を作る。
そこに草履を供えたり、大草履を吊るしたりといった例が多い。
具体的を下記に示す。


それぞれ一息に紹介してしまったものの、地域も異なれば時期も異なる。
意味としては疫病などの悪いモノが村に入らないようにすること、つまりは村の平穏を祈ったもの、というところで一定している。
時期を整理してみると日程そのものに意味を感じるのは
・小正月(初庚申)
・事八日
・春八十八夜 秋二百十日
・疫病が流行したら
といったところだろうか。
最後の「疫病が流行したら」というのは緊急事態を救う手段として考えられていたとわかりやすい例になるが、その他はどうだろうか。

事八日は履物だけを追いかけている私にとっても興味深いエピソードを含む日である。
なんでも、12月8日は一つ目小僧が来るから履物をしまっておくことが強制される。
履物を片付けなかった場合、一つ目小僧が焼き印を押していき、その焼き印を押された者は翌年疫病に掛かるという。
一つ目小僧は焼き印を押した家・人を帳面に書き込み、道祖神に預ける。
1月15日まで預かっておいて・・・というのだが、14日、左義長によって焼かれてしまい、村人は疫病から免れる・・・
という話である。

【参考】
一つ目小僧
神奈川県教育庁社会教育部文化財保護課 編『中地区民俗資料調査報告書』,神奈川県教育委員会,1974. 国立国会図書館デジタルコレクション

ここでの一つ目小僧は疫病神なのだろう。
それを防ぐのもまた道の境にある道祖神というのも興味深い。
一つ目小僧を防ぐ方法としては目数の多いものが弱点とされ、目かご等を戸口に吊るしておくという防御手段がとられる。
残念ながら履物は一つ目小僧に狙われる対象であって、防御策ではない。
しかし、下駄の穴は三つ目だから驚いて逃げていくという話もあるらしい・・・

大草履、事八日の話に戻ると。
先の事八日の出来事(一つ目小僧)が小正月の左義長にも繋がっていく事はよくわかる。
年の始まり、正月の終わりにその年の無病息災・五穀豊穣を願って、その思いを込めて道切をしている。
一つ目小僧の話が多いのは神奈川県が中心だが、他所の地域でも小正月に大草履を吊るし、無病息災を願う辺りは、どこかに似た考え方があるのかもしれない。

春八十八夜・秋二百十日は豊作祈願だろう。
いずれも農作物に影響を及ぼす天候変化が起こりやすい時とされている。
この被害から免れるように大草履を吊るし祈ったのではないだろうか。
先の例には挙げなかったものの、豊作祈願としては「虫送り」の方がイメージしやすい。
人形などの形代に農作物を食べてしまうような厄介な虫を付けて送り出す事によって、虫の被害を少なくしようという農作儀礼がこの虫送りだが、この虫送りの形代として大草履を使う例が四国では非常に多い。
しかしそのほとんどが同様の内容になるため、一例示しておく。

高川部落では、七月十七日に高知市薊野(旧一宮村)の国清寺の僧侶を土地の観音堂に招いて百万遍を行い、僧侶から呪文を書いたビヤの葉とお札を受け、これを竹に挟んで畦に立てて蝗除けのまじないにする。十八日は当人が長さに尺許りの蜻蛉ぐくりの大草履(草履こんごうという)を片足だけ作り,一同で蝗を送って部落の西境まで持っていって、威しに作った木製の薙刀、槍といっしょに竹に挿して立てる。大正の初め頃までは鉦太鼓をたたいて、「斉藤別当実盛、稲の虫ゃ西へいた」と謡って大賑いであったという。


桂井和雄 著『土佐山民俗誌』,高知市立市民図書館,1955. 国立国会図書館デジタルコレクション

まるで疱瘡送りと似たものがあるが、その対象は虫になっている。
稲を荒らされないようにと、厄介者の虫を大きな草履に集め、それを捨てている(送っている)
昔の人々は色々なものを草履の上に見ていたのだと感じる作法である。

このように、道切としての大草履に見えるは
・疫病対策
・豊作祈願(不作対策)
の2つが主になっている。
現代人からすると全く異なるジャンルの様にも見えるが、いずれも「招かれざるモノの仕業」として考えることができるだろう。
疫病をもたらす疫病神。
田を食い荒らす虫である。
その招かれざるモノを集落に入れないよう大きな草履を依代として、集落の大祓としたのが虫送りに見える姿ではないだろうか。
これを村の境に吊るすなり、竹に挿しておくことで、招かれざるモノは中に入れなくなる、というまじないになると考えられる。
また、例に挙げた大草履の中には「鼻緒をつけない(切る)」であるとか「編み掛け(作り掛け)にしておく」といった表現をされる草履がある。
これもまた通過儀礼時に鼻緒を切って捨てるのと同様、そこから動けなくなる、 といったようなまじないを重ねているのではないだろうか。


◆改めて考古学~出土下駄を考える~

以上、私の勝手な調べ事、妄想を披露するだけには留まらず、畏れ多くも自分なりに出土下駄について考えてみたい。
ここまでの流れでいうと本村説の「清浄さを保つための履物」というよりも、何らかの「形代(依代)としての履物」と考えた方が捨てる作法も含まれるため、しっくりくると感じる。
何より、出土する下駄は「履かれている」のである。
吊るした大草履などのように「履かずに象徴としてきた履物」ではない。
履いた上で、そして捨てているのである。
しかも強烈な足跡を残した下駄が出土される。
神事の日、代表者が特別な履物を履いた例はこれまでにもいくつか示してきたが、その程度の履き方では足跡がつく事は考えられない。
・・・というよりも「現代的な履き方」では歯が擦り切れるまで履いたとしても台が凹むような足跡がつく事は考えられない。
この足跡は使用方法を想像する上で大きなヒントになると思う。


■疫病神と馬

これまで、履物を接地面に必要なものとしてみてきた。
それは履く者の清浄さを保つため、というのが代表的な役割だった。
しかし、履物が必ずしも必要になるわけではなかった、というのもまた事実だったと思う。
履物は接地面となる別のものに代替される事がある。
これは忘れてはならない要素だろう。

下駄と共に出土する祭祀遺物の中にも接地面となりうる代替品がある。
土馬である。
この土馬は雨乞いに使われたという説と、その背に疫病神を見ているという2つの説が考えられている。
正直なところ、雨乞いに草履が使われる例もある。
しかし、これまで見てきた疫病対策としての履物の姿の方が多いように感じる。
この履物との関連性だけを見れば疫病対策として考えた方が自然に思う。
私としては水野氏の「馬・馬・馬: その語りの考古学」という論文が興味深かった。
内容としては「本朝法華験記」の第128、「紀伊国美奈倍郡道祖神」の話を引用し、土馬は行疫神の乗物であると主張する。
また、土馬はそのほとんどが欠けた状態で出土する事から馬体を損ずる意味について考察していく。
結論としては下記の一文がある。

飾り馬―行疫神とその乗馬―を作り、そこに罪穢の根源を見、その馬体を損ずることで脚足はやい災厄疾病の拡汎を止め、時には行疫神にその防遏を希って体駆を大きく損じてその猛威をとどめようとする在り方である。


馬・馬・馬: その語りの考古学 著:水野正好

せっかく作った土馬を捧げるのみならず、壊し、捨てている。
そこには行疫神の行動を止めるため、という人々の祈りの姿を見る事ができる。
ここに注目して、下駄の出土する意味、足跡がつくほどに履かれる意味を考えてみたい。


■足跡の想定・・・強く踏み込むということ

出土する下駄は「足跡がついている」と表記される事が多い。
これを初めて読んだ時は白木の下駄なんだから足跡(汚れ)ぐらいはつくだろう、と簡単に想像してしまったのだが、どうやらそういうレベルではないらしい。
考古学の資料を一つ一つ確認したわけではない(というよりも出来ない)のだが、何点か確認すると、台座(天面・上面)が凹み、はっきりと足の形がわかるほどに足跡がついている(凹んでいる)ものがある。

出土下駄
三重県埋蔵文化財センター 2000 『六大A遺跡発掘調査報告』三重県埋蔵文化財調査報告115-17

私は下駄屋なので、擦り減った下駄を見る機会は他の人よりも圧倒的に多いのではないかと思うのだが、あくまで現代において、歯が擦り減るほど履いたとしても天が削れて凹むという事は考えられない。
少なくとも私は見た事が無い。
ただ、一昔前の人に話を聞くと、「いや、あるかもしれない」という。
この話を聞いていくと確かに天が凹むほど履き込んだ物を良しとする価値観もあったらしい。
ただ、構造が違う。
我々の言葉でいう朴歯、豪傑といった差し歯の下駄なのである。
差し歯の下駄の歯を何度も歯を入れ替えて履き込む。それによって天に足跡(凹み)がつく。
それが、俺はここまでこの下駄を履き込んだんだ、という一つの自慢になっていたらしい。
言ってみれば、この話からもわかるように「歯を入れ替えて何度も履く」というような事をしないかぎり、下駄の天面が足形に凹むということは考えられないのではないだろうか。

では、出土する下駄の天に激しく凹みがあるのはなぜなのか。
履く者が強く踏み込んだから、としか考えられない。
硬い物を踏んでいるにしろ、ある程度足に力が入っていなければ足跡はつかないだろう。
そこには叩きつけるような、押し付けるような力強さが想像されるのである。
なぜ、そこまで力を込めて踏みしめたのか・・・
これについては「下駄: 神のはきもの」という本の中で秋田氏も考察している。
まとめると「天岩戸」の一説を引用した上で

私はフミトドロコスという言葉から、天鈿女命は下駄をはいて槽の上に乗り、下駄で槽の底を激しく踏み鳴らしたと考えている


下駄: 神のはきもの 著:秋田裕毅

としている。
つまり、音を出すために下駄が履かれていたのではないか、という事である。
その音が神事においてなんらかの役目になっている・・・と。
この秋田氏の説に本村氏も同調しているように感じる。
音を出すために踏みしめられた履物が割れ、役目を終えた履物はそこに破棄され、祭祀遺物と共に出土する。
これはもちろん否定できるものではないと思う。

ただ私が気になったのは、履物を捨てる時の作法である。
話を戻して思い出してみてほしい。
葬儀の時、墓場に草履を捨ててくる。
場合によっては鼻緒を切って捨てるのではなかっただろうか。
そしてその鼻緒を切る作法は、履物としての機能を無くすため。
つまり、死者が憑いてこないように、墓場に留まるように、というおまじないだったはずである。
これは先の「馬・馬・馬」水野氏の主張そのもののように私は感じるのである。

行疫神は馬に乗ってくる。
そのために馬を行疫神に捧げる。
馬に行疫神が乗った姿を想定する。
そして・・・馬体を損ずる。
馬に乗っていた行疫神は動けなくなる。
そのまま、捨てられる。
→疫病が広まらないように。

草履も同じだろう。
草履にのった死者の魂をみる。
そのまま鼻緒を切って捨てる。
履物の機能を失った状態では動く事ができない。
→死者が憑いてこないように。

こういった、おまじないを信じてきたのではないだろうか。
信じてきたからこそ、今の時代になっても、なんとなくその姿を感じる事ができるのではないだろうか。

もちろん。出土品から下駄の鼻緒が出土する事は無いだろう。
鼻緒を切って捨てていたかどうかはわからない。
ただ、その下駄を見れば。
足跡が付くほどに踏み込み、下駄は何らかの損傷をしている事が多いのではないだろうか。
何のために踏み込んだのか・・・それは下駄の履物としての機能を損なわせるため。
履けない状態にして捨てる事に意味を感じていた表れではないだろうか。
つまり、下駄の台が欠ける、もしくは割れるまで踏み込み続けるような動きを想像する。
ここでみる、下駄の意味は人々の罪穢を引き受ける、形代として扱われている事になるのではないだろうか。
それは、先に紹介してきた、特別に作られた草履達と何も変わらない意味合いに感じる。

履物を捨てる事は、それまでの自分との決別を図る呪いなのである。
これで私は生まれ変わる。
疫病に掛かる事は無い。
だから大丈夫だと。
心の底から思っていた姿が思い浮かぶ。


◆第三章

◆編み余りを残した草履について

ここまで本村説に則った出土下駄の背景を感じられるモノはないかと信仰的な関連を洗い出してきた。
しかし、ここからは考古学を離れてみたい。
というよりも、私が最初に受けた衝撃の大きさのあまり、それに固執しすぎたかもしれない。
それでも、結果的に多くの信仰と履物の関連を確認する事ができた。
それらは自分の中では新しい発見であったように思う。
第一章・第二章の流れを踏まえた上で、また民俗学の先行研究を眺めた時、また違った視点に立つようになっていた。
その点について、少し書いてみたいと思う。

ここでのテーマは今までの民俗学的な履物史の中では見て見ぬふりをされてきた草履の話になる。

例えば、16世紀末から約20年間長崎に滞在したスペインの貿易商・アビラヒロンが書いた「日本王国記」の中で表現されている「金剛」は、見た目ほぼ現在の雪駄と変わらないほどであるのに、踵だけが丸く突き出た格好をしている。
「げげ」と呼ばれる草履もまた同様に編み余りを残しており、絵巻物では全体的に放射状の編み余りを残した草履が確認できる。

履物の機能に着目した研究が多いとは先にも書いたが、履物の機能、つまり歩行補助といった要素にこの編み余りは必要ない。
むしろ歩きにくいのではないか、とさえ思ってしまう。
それほどに現代人から見れば意味をなさないというか、存在意義がわからない要素になる。

これだけ特徴的で興味を引くにも関わらず、こういった履物について深く考察されているものは見た事が無い。
むしろ、作り込みが甘い粗末な草履、といった表現までされている事が多い。
本当に単に粗末な草履だったのだろうか?
素人が畏れながら、その糸口を探してみたい。


■編み余りの草履

先の特徴的な草履を「編み余り」と表現したのは、ある意味そうであって欲しいという私の願望も含まれている。
意味するところが「編み余り」なのであれば、解釈の余地があるように思っている。
というのも、これまで挙げた資料の中にも編み余りを残した草履が登場していることに目を留めた方もいるのではないだろうか。
話を先に進めるべくおきざりにした部分がある。
改めて列挙すると
・鼻緒をつけない、もしくは切った状態で吊るされる大草履
・ヒゲを残した草履
・狐狩りの半欠け大草履
つまり、未完成の履物に意味を見出してきたところがある。
また、その特殊な草履が五穀豊穣の祈りの道切や祭りに作られ、重要な役目を担っているわけである。

編み余りを残す履物は何らかの意味があった、故にその特殊な形態をしていたと言って良いだろう。
ただの粗末な草履だった、として片付けられるものではないはずである。


■編み途中の草履の代表格 足半

未完成の履物、という目線で見ていくと、最も有名な履物は「足半(あしなか)」だろう。
足の長さの半分しかない大きさの草履の事で、その見た目から現代人にも一定知られているのではないだろうか。

絵巻物などで足半を履いて戦っている武士の姿は多くの人の目に留まる姿となっている。
足半を履いてその姿を世に広めたのは他でもない武士だろう。
しかもその「足半」という言葉がそもそも関東武士の方言ではないか、という説がある。
というのも、長さが短い草履を指す言葉が色々とあるからその言葉の解釈として色々と議論があるわけである。

そこで挙がる同じ履物を指す言葉として
尻切(しきれ)
半物草(はんものぐさ)
といった言葉がある。

宮本馨太郎氏は「民具研究の軌跡 : 服飾の民俗学的研究」という本の中で
この足半、尻切、半物草といった言葉を「松屋叢考歌詞考」の一節
「半物草は尻切ともいひて 註略 関東の方言に足半とよぶもの也」
を用いるなどし、同一のものを指す言葉だとしている。

半物草は特に問題にならないにしても、尻切(しきれ)が足半と同じとは大いに違和感があるはず。
それもそのはずで、先に紹介した尻の突き出た草履も尻切であって、どう見ても足半ではないのである。
しかし、尻の突き出た尻切の方は絵による図示が多く、またアビラヒロンの日本王国記にも表れている事からも何かの誤りであったわけではない。

問題はこの解釈の違いをどのように受け止めれば良いのか、というところになる。


■尻切(しきれ)を理解する

これまでの民俗学の履物解釈では、尻切は室町時代辺りを境に裏革を付けたタイプの存在が確認できる。
つまり、それが先に紹介した「尻が突き出た形」で描かれる「尻切(しきれ)」という事になる。
これらは下記の資料に絵付きで現れる。

安斎随筆
和漢三才図会
貞丈雑記
人倫訓蒙図彙
歴世服飾考

これらは揃って尻が突き出た草履を尻切と絵付きで書かれていて、全て江戸時代に入ってからの資料になる。
こうした形をした革裏の草履であったことは間違いないだろう。(後は我々が信じがたいだけ、となる)

加えて先ほどの「半物草=尻切=足半」とした「松屋叢考歌詞考」は文政九年(1826)成立なので、
江戸時代においては「革裏の尻切」と「足半=尻切」の意味、両方ある、ということにもなる。

これが混乱を生むし、理解しづらいところだと思う。
使われている地域、背景などから推察をしなければ正確にその履物が把握できない。

これは正直な所現在においてもそうなのである。
履物屋同士、履物名称で話していても、ほぼ確実に食い違う。
こういう形のもの、といった描写が意思疎通に必要な要素になり、名称は通用しない。
履物名称はとにかく地域差が大きい。
これは私が個人的に感じている事である・・・
しかし、時代を変えてもそうなのである。
江戸の資料と京都の資料では同じ表現にはならないのだろう。
資料を読み込んでいく上での注意点になっていくと思う・・・

話を戻して。

半物草=尻切=足半とする理由を先に示しておきたい。
「ものぐさ」を草履と解釈する事があるため、半ものぐさはその半分の長さの草履=足半となる。
尻切は「尻の破れた草履の事をしりきれぞうりと呼ぶため、詰めてしりきれ、しきれ」とされている。
つまり、言葉の意味としては、はんものぐさは編むのが億劫であったため(半分の草履になった)、
しきれは履き古しの壊れた状態を指していると言って良い。
どちらも、良い表現には聞こえない。

しかし。
「履き古しの壊れた状態」というのは意味合い的に興味深い。
日本人は、履物を壊す、ということに意味を持たせてきたのではなかっただろうか。
履物を壊すのみならず、壊れた状態を模して作る草履があった、ということである。
これらは先に出てきた「編み余りを残した草履」も同じことだろう。

つまり、「尻が切れて足の半分までしかなくなってしまった草履」を模して作ったのが尻切(しきれ)であり、それが足半草履ということになる。
尻切、足半は壊れている草履、と言っても良いだろう。

ここまでくると、和漢三才図会の記述が興味深くなる。
和漢三才図会では、他で見られる尻切に対して「タチハメ(文字化けのためカタカナ表記とする)」という言葉を当てている。
引用すると

タチハメ(たちはめ こんがう)
和名太知波女
俗ニ云古牟古宇
(革+丁)ハ補(二)フ履ノ下ヲ(一)也倭名抄ニ云タチハメ下賤ノ人以(二)牛ノ皮ヲ(一)補(二)著ス(尸+彳+喬)下ニ(一)也
△按タチハメハ 今云古牟古宇 正字名義未(レ)詳
織テ(二)稈シベ芯ヲ(一) 爲ス(レ)(尸+彳+喬)ト 其裏ノ下ニ著ツク(二)薄皮ヲ(一)
或表ニ張リ(レ)錦ヲ 以テ爲ス(二)婦人之履ト(一)
古ヘ所謂ル錦鞋線鞋之遺風カ
其尾?スホク尖トカル物ヲ名ク(二)尻切ト(一) 俗云世木禮
出ツ(二)泉州堺ヨリ(一)


寺島良安 (尚順) 編『和漢三才図会』上之巻,中近堂,明17. 国立国会図書館デジタルコレクション

タチハメは履物の底に革を当てて修理する手段である。
・・・
つまり、壊れた履物を修理するため、底に革を当てている。
尻切とは壊れた草履を模して作った草履であったはずである。
そこを補うため、下賤の者に薄皮をつけさせた。
壊れている、故に修理を行う必要がある、ともとれる。
これが、革底の尻切の誕生ということにならないだろうか。
中でも其尾の尖る物を尻切(しきれ)と呼んでいた、としている。


▲尻切と雪駄の違い

草履の底に革を当てられた尻切は雪駄と似ている、と貞丈雑記などでも記述されている。
確かに藁表に牛革底を付けたものと、竹皮表に牛革底をつけたものと見比べてもあまりよくわからないだろう。
例えば現代だとしたら藁表・竹皮表と畳表の区別をするかもしれないが、雪駄として販売しているのは間違いないだろう。
作り手が異なることは・・・考えられないのではないか。
何が言いたいのかというと、
江戸時代ではこの尻切と雪駄を作る人を分けているのである。
人倫訓蒙図彙をご覧頂きたい。

人倫訓蒙図彙
人倫訓蒙図彙

雪踏師の隣に尻切師が描かれている。
作業風景もそれぞれ異なるように描かれている。

この意味も。和漢三才図会の「タチハメ」という解釈。
足半=尻切=壊れた草履であるという解釈を合わせれば理解しやすいのではないだろうか。
尻切に革底を当てるのはあくまで「修理」だったのだろう。
それに対して雪駄は、最初から革底を付けた履物であることは間違いないだろう。

私が思うのは、踵に出たほんの少しの出っ張り、尻尾。
これが昔の編み余りの名残として残そうとしていたのではないだろうか。


■足半に礼儀無し ~足半が許された理由~

尻切についての理解は進んだことかと思う。
話を一旦足半に戻して進めてみたい。
足半といえば、特に有名なのが「足半に礼儀無し」とする、履物作法・TPOを越えた着用例になる。
具体的に見ていきたい。

足ながの禮の事 一かうにぬぎ候まじく候。御前の白砂へもみなみなめされ候物にて候。
足ながハいづくまでもめし候べし。


御供古実

足なかに禮はあるましく候。殿中へも皆々めし候。
辻堅又ハ御門役のまへを通候にも。あしなかはき申也。


伊勢貞助雑記

あしなかにハ禮義なし。人のしきかわに座して候共。
とをる時。あしなかハぬくましきなり。


河村誓眞雑々記

あしなかに禮はなきものなり。いつかたもあしなかをぬく事はなき也。
公方様なとへも。御ゑんのきはへはなくり。
去なから又ことによりて。はかぬ事もあるへし。わらんしも禮はなきといえり。


鳥板記

あしなかにハ。禮なき事にて候。殿中庭上迄もをき申。但又ことにもよるへし。


人賢記


御前の白砂、殿中、辻固め、御門役の前、敷皮に座している人の前、庭上までも、足半を履く事が許されている様子がわかる。
逆に言えば、ここで列挙されている所が本来なら履物を履き替えるべきところという意味にもなる。
これまでの話の中では履き替えの作法ばかりだったので、それを問題にしない足半はかなり特別視された履物であったように感じる。


▲武士の作法

足半に礼儀無し、といったこれらの履物作法は多く武士の作法、武家故実として残っている。
武士はほとんどの場合足半を履く事を強要される・・・というよりも足半を履いていれば特に履物履き替え問題には出会う事が無いともいえるぐらいである。
他にも武士の作法で興味深いものは多い。
中でも行き会う場合の作法に足半が登場する。

諸大名路次にて行あはるる時御禮の事。
兩方同じ程の儀なれバ、互に馬を打のけ御禮有て、御通りある處に、御供衆は先兩方共に、
軈て馬を打のけ下馬申間、下馬の人に被(レ)對て、又兩方御下馬あり。
三職は諸家へはさして馬をも打のけられず、ひかへて御禮有て、とほし被(レ)申てのちに御通りあり。
惣じて少も賞翫有べきを先通し可(レ)被(レ)申。
御供衆は三職の宿老衆も、其外諸家の衆も、下馬申事ハ同じ。又御輿と御馬との時も同禮也。
一方は御輿にめし、一方ハ馬上にて御禮あり。御輿よりおりらるる時ハ、前ばかりたてて御おり有て、足中をめし御禮あり。
下馬ある方も沓を脱。足なかをめす也。御供衆ハ下馬申て畏てあるに、管領を始として、ふかく御禮あり。
手をバつかれず、御供衆ハ手をつきてふかく禮を仕。諸家のしなに依て少々浅深あるべし。


家中竹馬記

公家衆路次にての御禮の事。輿にはたれ候。
此方も馬にて候時と。路次をよけ候事可然候。
但し難成候ハヽ。自此方下馬候へは。必こしより御出候。能御禮を申。
少行過され乗馬可燃候。かちにて行合申候時。
しきれなとはき申候ハヽ。あしなかにはきかへ申へし。
惣別しきれの事は。はかれ候事は無之候。


伊勢貞助雑記

御供の時ふと御輿たちて下馬あらば、先杖をつき前の御供衆を見合すべし。
又すゑずゑをうたれ候御供衆ハ、御成の時所近くならバ、馬上にて沓をぬぎ、足半をはかるべし。
下馬して沓をぬぎ、物を履き候へば、遲々候て御こしに追付かね申候、故実にて候、私にても其心得あるべし。


宗五大艸紙

目上の人と行違う時、自分が馬に乗っていたら下馬し、足半を履かねばならない。
また、しきれを履いていたとしてもダメで、足半に履き替えなければならない。
このようにかなり厳しい仕来りがあったように感じられる。
ただ、それでは遅くなってしまう事もあり、馬上で沓を脱ぎ、足半を履いても許されるようになっていることもわかる。
足半を履き、その姿を見せる事を相手に対する作法としていたのである。

このわざわざ履き替えなければならない姿を見ると、少なからず武士にとっての履物は地位表明のアイテムでもあったのだと感じる。
足半は壊れた履物を模して作られたもの、未完成の履物と解釈すると、当然ながら履物としては最下級の履物と言わざるを得ない。
この履物を履いた姿を相手に見せる事で、相手よりも下を意識していること、畏まっている姿を示す事ができると言えるだろう。


▲長草履と半草履

このように武士は作法に煩かったわけであるが、それでも裏革を張った尻切を武士は履きたがったように見える。
豊臣の時代。
長草履を規制する動きが確認できる。

天正14年(1586)正月十九日付の秀吉朱印状
一、諸侍しきれはく事、一切停止也、御供の時は、足なかたるへし、中間・こものハ、不断可為足半事、
天正19年(1591)六月二十三日付の秀次が出した七箇条
一、侍供かわさうり(革草履)、并供のときなかさうり(長草履)はく儀禁制事


天正拾九年六月廿三日付 豊臣秀次条目について  加藤 明日香


秀吉も秀次も同じような規制をして長草履を禁止していることがわかる。
足半を半草履という表現があり、これに対して長草履は足の長さの草履、という解釈になる。
ここで登場する「しきれ」は革裏を当てた「しきれ」であることは言うまでも無いだろう。
よって、秀吉の「しきれ」、秀次の「革草履」が同じ意味・履物を指すと考えられる。
長草履を禁止されるのであれば、当然履物は足半となる。
基本的には選択肢を与えられていないと言って良い。
黙って足半を履くのみ・・・ということになる。


▲大きな脱線~ 千利休と雪駄と下駄 ~

時代を見ればわかる通り、先の規制は既に16世紀の末になる。
この辺りまで武士は足半を強要されていたのは間違いない。
ただ、もう既になのか、もうすぐなのか・・・「雪駄」という新たな履物が作り出される時代となってくる。
この「雪駄」は規制を潜り抜けている。いや、規制を緩和させたような存在になっている。
明らかに武士の足元に採用されるようになるのである。

雪駄といえば千利休というほどにその説が有名になっている。
千利休が茶席の路地を歩くため作り出した履物であり、雪を踏んでも足が濡れる事が無いことから雪踏(せった)とした。という。

雪駄は言うまでも無く「革草履」であり「長草履」である。
千利休は天正19年2月28日に切腹しているので、先の秀次の規制はまさにその直後になる。
千利休雪駄創造説が正しければ、既に雪駄は存在していることになる。

千利休の切腹は理由がよくわかっていない、とも言われている。
しかし、その中の一つの手がかりとして「晴豊記」がある。

宗易、利休事也、曲事これあるにより、ちくてん、大徳寺三門に利休木そうつくり、
せきたというこんかうはかせ、つへつかせ、つくり置き候事、曲事也


晴豊記

「せきたというこんかう」を履かせた木像を造った事、曲事也。
これまで武士の作法、その足元を追いかけてきた流れとしては、これは確かに曲事なのではないだろうか。
ただ、先の規制は武士に向けてのものであり、千利休にも当てはまるのかどうかはわからない。
それが当てはまるとしても、切腹させられるほどなのか、というところもわからないものの、明らかに問題視されているわけである。
人前に立つとき、履物だけでいえば、ここは足半であるべきだったのかもしれない。

「せきたというこんかう」という表現を分解してみよう。
「せきた」はせきた→せったへと繋がる言葉で正に千利休創造説と繋がる可能性がある。
「こんかう」はこんごう(金剛とも書く)。
先の和漢三才図会の記述から「タチハメハ 今云古牟古宇」としているので、こんかう=たちはめ(尻切)という理解で大丈夫だろう。
つまり、利休の木像は「せきたという革裏を当てた草履を履いていた」という表現になる。
これが曲事だった、というのは間違いないだろう。

先に挙げたように秀吉・秀次側はしきれ・革草履の規制をしたかったことは明らかである。
そこへ千利休がその規制を潜り抜けようとした。
しかし・・・文字通り致命的な問題となったのかもしれない。


この履物の問題をなぜ千利休が解決しようとしたのだろうか。

私が茶の湯を語っていくのは難しい問題になってしまうのだが。
茶の湯に関してよく言われる事の中に「身分や地位を越えた、平等の立場で茶を楽しむ」という世界観があるように思う。


▲路次と履物

茶の湯と履物の関係は、「路次」という空間があるために履物が必要になってくる。
茶室に入る前には必ず路次を通るという仕組みになっており、この路次に入る前に、履物を履き替える事が求められている。
これには「路次専用の履物」を用意するのが望ましく、その履物は路次を歩いて茶室へ向かうのみに履かれることになる。
この茶室へと向かう路次に履く履物、考案された履物が結果的には「雪駄」ということになる。
このことに関しては、一般的に言われる事でもあり間違いないのではないかと思われる。

加えて今回注目したいのは、その空間は身分や地位を越えた空間であるという事である。
茶室に入る前、といえども路次で裸足であったり、足半を履かされるようでは身分・地位を突き付けられているようなものではないだろうか。また、当然ながら足の半分しかない履物では足が汚れる事も想定されるため、茶室に入る前に足を洗うといった余計な手順も増えてしまう事だろう・・・
そこに身分や地位を越えた、新しい履物を作る必要があったのではないだろうかと推測する。

新しい履物、とはどういった履物であったのか。
そこで生まれた「せきた」とは言わずもがな竹の皮で編まれた履物である。
これはここまで追ってきた草履の歴史の中で、異素材であると言って良い。
これまでは古くは檳榔であり、藺草を使い、そして藁を使ってきたのが式正の草履であったはずである。
尻切もまた、藁であった。
だからこそ「藁」を使う事を避け「竹皮である」ことに新しさを表現していたのではないだろうか。
そこに侘び寂びといった要素があった可能性も無くはないが、ここでは言及しない事とする。

また、雪駄には、これまであった「編み余り」の表現が無い。
現代へと続く、我々が見ても違和感のない畳表に裏革を当てた馴染みのある作りになるものの、これもまた当時の人達にとっては革新的な作りになっていたようにも感じられる。

また、路次に履く履物で工夫されているのは雪駄だけではない。
下駄も、と言わざるを得ない。


▲馬下駄の登場と路地下駄の存在

大阪城跡遺跡発掘調査報告を見ると16世紀末頃の下駄がどのようなものであったのか、非常にイメージを広げてくれる。
民俗学の多くは下駄の発展は馬下駄の登場から駒下駄、二枚歯のめりといった形へと繋がり進化していく過程が描かれる。
根底となる馬下駄というものはどういうものだったのか。
実際はあまり資料が無いのだと思われる。
ただ、この大阪城の発掘調査報告を見るだけで、馬下駄がどのようなものであったのか、非常によくわかる。

爪先にコの字形の歯が付き、その中が三角形に刳り抜かれている。
これを見た時に、馬の蹄を思わずにいられなかった。
蹄というよりも蹄叉と呼ばれる部分を表現しているように見える。
これを指して馬下駄と呼んでいたのはほぼ間違いないだろう。
北越雪譜」では「馬の爪」と記述されている。
まさに、そのままである。

こういった下駄が履かれるようになったのは武士=馬という発想からなのか。
それとも・・・これまで書いてきたような乗物、馬、履物という関連性の高いもの(役割が似ている・同じ)であるといったような発想があるからなのか。
この辺りの真相はわからないまでも、日本人は下駄に馬を見てきたのは事実と言わざるを得ないだろう。

さて。雨の日には雪駄を履けないのは茶の湯においても変わらない。
故に雨や雪の悪天候には路次でも下駄を履く事になる。
その下駄は古く「茶式湖月抄」などでその下駄の寸法や形が分かる事から現代においても同じように作られ、そして履かれているようである。
それが、この形になる。

路次下駄
財団法人大阪府文化財センター 2002 『大坂城跡発掘調査報告 1』財団法人大阪府文化財センター調査報告書78


前歯を三角形に刳り抜いた馬下駄に対し、前ツボ付近のみを四角く刳り抜いた形。
これが路地下駄と伝わる下駄になる。
これはいわずもがな。先の大阪城発掘調査報告に載る、路次下駄になる。

これが非常に興味深い。
一つに、利休が生きていた時代にも路次下駄がそのまま存在していた可能性があること。
もう一つは「馬下駄」を嫌ったように感じる前歯の刳り方、である。

勝手な想像に過ぎないが、馬下駄は武士を連想してしまうのではないだろうか。
そうなれば、平等空間における履物として適さないことになってしまう。
ほんの少しだが、手を加える事によって、路次の下駄にしているように感じる。

そうなると、妄想は止まらなくなってしまう。
「雪駄」も「下駄」も、利休創案ではないか、という事も考えられるのではないだろうか。
これまでこの文章の中では「下駄」という言葉で統一しているものの、「下駄」という言葉が確認できるのは16世紀末と言われている。
それまでは「下駄」ではなく「アシダ(屐・足駄)」といった言葉で表現されている。
ここに、新たな言葉が生まれる可能性、生む必要性を感じてしまう・・・
草履は雪駄になった。
足駄は下駄になった。というわけである。

いずれにしても、履物が現代にグッと近づいてくる大きな変化が16世紀末の大阪城にあるように感じる。


■地位と履物 ~相撲 力士や行事の足元~

大きく茶の湯に脱線してしまったものの、身分や地位と履物の関係性、その考え方はわかってきたように思う。
秀吉・秀次の規制を見る限り、御供の時などは必ず足半を履かねばならないし、その下の中間・小物といった人たちは普段から足半を履く事を強制されてきたわけである。
一般人までそのような規制があったかはわからないものの、絵巻物等からでは裸足の人も多いことから、日本では履物の普及が遅かった、などと言われる事がある。
それはこういった身分や地位を履物で判断していた背景もあるのかもしれない。

現代においても力士が地位によって履物分けされている事は比較的有名な事ではないだろうか。
前相撲・序ノ口・序二段までは下駄を履く事しか許されない。
三段目からようやく雪駄を履く事が許されるようになっている。

また行事の履く草履について研究されている方もいる。
根間弘海氏の「地位としての草履の出現」という論文では

木村庄之助が草履を履くことを許されたのは天明7年12月である。本場所で初めて草履を履いたのは天明8年4月である。7代木村庄之助はそれまで素足だった。


地位としての草履の出現 根間弘海

としている。
行事は勝敗を裁くもの。
土俵上で相撲を取る力士を裁くものとして、草履を履く姿は確かに地位を表明するものだと感じることができる。


■では、足半はどうなったのか?

散々足半の話を続けてきたのであるが、現代人にとってあまりイメージのしやすい履物ではなかったように思う。
今でも鵜飼や川に立ち入る人などが滑りにくい、足元を取られる事が無い、ということで履かれているものの、現在ではほとんどの場合実用的に足半を用いる例はないだろう。

自分で足半を作って履いた時に強く感じたのは「ツボ下がりに似た感覚」だった。
踵の出具合、爪先のフィット感、見た目。
どれをとっても非常に感覚が似ているし、あまり変わらないように感じた。

ツボ下がりとはタイヤ裏の実用草履の事を指し、現代においても鳶職やお祭りなどのお揃いとして多く履かれる姿が見られる。
名称ともなっている「ツボ」=鼻緒の前ツボを「下げる」ことによって鼻緒の位置が下がり、足の位置が当然下がってくる、結果、大幅に踵が出る履物になる。
この履物にはサイズ感というものがなく、人によっては本当に足の半ば程度のサイズ感になると言っても過言ではない。
ここに、足半の名残がある、と言っても良いのではないだろうか。

また守貞漫稿から「麻裏草履のこと」を引用する

普通長緒より殊に緒を長くし細緒にて前緒を短くしたるを「つゝかけ」と云突懸也
鳶人足等凡賤業侠風の輩用(レ)之


守貞漫稿

これがツボ下がりの原型のように見える。
前緒を短く、つまり鼻緒をキツくすげることによって足が入らなくなる。
爪先だけチョンと突っ掛けるように履かざるを得ない。
この履き姿を現在では「つっかけ」と言っている。
麻裏草履は現在のタイヤ裏の実用草履の前身である。
これは鳶人足、賤業侠風の輩に履かれた、とあるのも現代に続くものである。

足半はいつしか「半分まで編まれた未完成の履物(しきれ・はんものぐさ)」という意味から「足の長さの半分しかない履物」と解釈されるようになり、
それがまた意味を変えて「踵が出る履物」と変化していった様子が伺える。

また。それが差別的な意味合いに取られていた時代もありつつも、それを貫く姿、研ぎ澄まされていく形に「江戸っ子」の姿が重なるようにもなり、やがて「憧れの存在」にもなっていったようにも感じる。


■下駄の幅と地位の関係

履物を足よりも小さくすることは畏まった姿を表すのだろう。
それに対して履物を大きくすることは、地位の高い事を表すという感覚がある。

これには下駄の形でもまさにそれが表されている。
現在の丸屋のラインナップでいうならば大角というのは巾3寸8分ほど。
それに対して下方と呼ばれる形が巾3寸2分。
真角は3寸とそれぞれ幅が細くなっていっている。
これらは細い方が江戸好みとされ、逆に西の方へ行くと幅の広い形が好まれる傾向にある。
この下駄の幅が表すものも先の説明と同じであろう。

謙遜した姿勢を表す形を良しとするか。
権力を表す形を良しとするか。
これは、その人の好みによるとしか言いようがない。
ただ、それを厳格に示さなければならない時代もあったのだろうと推測する。

どちらかといえば、江戸の方は武家社会でもあり、足半を強いられてきた背景上、足元を小さく見せる事を良しとしてきた傾向があるのではないだろうか。

また、事実として「いなせ下駄」というのが江戸時代から履かれているようである。

五分高 銀杏樫歯の足駄に細き輪矛緒を付たるも安政中江戸工匠或は賤業侠風の徒用(レ)之幅二寸二分ばかり緒いよいよ長く二孔甚だ背の方にあり此足駄を當時の方言に「いなせ」と云當時萬事ともに侠風意気なるをいなせと云方言なり是形より不應の小形下駄を好とす


守貞漫稿

幅2寸2分は現在の女性物よりもまだ細い。
6.6cmほどの幅であるから履ける人が居るのか?というぐらい、現代の感覚からはかけ離れているサイズ感である。

先の武家作法を見ていくと「あしなかぼくり」という履物があり、足半に寄せた下駄が存在していたのだと思われる。

足半木履ハ。殿中の御門の内へもはき申候。御縁のきわまてもはかれ候。
常の木履ハ。人中へは緩急にて候。いやしく見へ申候。
足半木履は。公界にも能候。公方奉公人ハ殿中にもはかれ候。
大名の御内にハはかれす候。


諸大名出仕記

殿中へ足なか木履の事。不苦歟。然ハ誰々も行合候てもはき可申歟。
あらなるほくりに禮ハなき由。古より申習し候へ共。見しりたる人には用捨候て可然候。
貴人なとへはぬかれるやうに。此方より用捨尤候。かやうの事は。
法の外の心持専用候。


伊勢貞助雑記

常の木履はいやしく見えるそうで、足半木履であれば良いとか・・・
この履物も足半同様に礼儀無しとされる履物のようで、形だけでの想像にしかならないが、いなせ下駄の前身となりそうな履物である。
粗なる木履に禮はなき。これもまたそのまま現代に当てはめる事は出来ない感覚になる。
やはり足半には「未完成、粗末な作り」というような意味合いがあったのだろう。
そこに意味を見出してきた感覚もまたあったのである。


◆改めて編み余りの意味を考える

はんものぐさ・しきれ・あしなかといった言葉と草履から編み余りを残した意味は、
未完成であること、壊れた履物を模して作る事に意味をもたせてきた、という事がわかってきたと思う。
それらは多く、武士の作法として、行き合い時に履物を履き替えるなどして相手に対して畏れる姿勢をみせる事が重要であったと考えられる。

改めて編み余りを残した不思議な形をした草履を見てみると。
①しきれ
②全面放射状のもの(放射草履)
③ゲゲ
この3種に分けられる。
一つ目の尻切は先の考察で十分かと思う。
ここでは②と③について考えていきたい。
②の履物については文献等や先行研究を当たっても「ゲゲ」や「金剛」といった判断をされている場合が多く、呼称すら定まっていないように思う。
しかし、呼称が無ければ進め辛いので、ここでは「放射草履」と呼ぶ。完全に造語であるためご注意を頂きたい。
順番が前後するが資料的には「ゲゲ」の方が圧倒的に多いため、まずは「ゲゲ」から見ていく事とする。
また、「ゲゲ」にも「げげ」「下々」など色々な表記があるため、ここではカタカナの「ゲゲ」で統一して表記する事とする。※引用はそのままの表記とする


■「ゲゲ」を読み解く

こういった特殊な形状の草履は主に絵巻物で見られるため、文献等の言葉を追っていく、というよりも絵巻物で履く人を見ていくようになる。
絵巻物についての解釈については私自身が正確な判断ができるわけもないので、
ここでは渋沢敬三著作の「日本常民生活絵引」を元に、その足元に注目して見ていきたい。

絵巻物に見られるゲゲを履いている人の姿は下記の通り

絵だけで見てもわかるように男女問わず、様々な人々に広く履かれている姿が確認できる。
庭掃除の爺、荷物運び、草履取り、大工の棟梁。
これらの傾向を一言で表すことはできないだろう。
ただ「粗末な草履」とは特に思わないのではないだろうか。
少なくとも草履取りは主人の履物としてゲゲを持っているし、ゲゲの横で寝ているのも主人の帰りを待つ草履取りだろう。
つまり、人を従えるような人も履く履物なのである。
また「慕帰繪々詞」の草履取りが持つゲゲは丁寧に緑で描かれている。
おそらく藁ではなく藺草で編まれた物であり、自分が履くゲゲは藁で編まれた物と思われ、それは使い分けられていたのだろう。

絵巻物からみるゲゲは上記のような踵に編み余りを残す草履として描かれる。
それに対して有職故実研究家からみるゲゲは少々異なる。
「安斎随筆」によって図付きで語られているのがこれである。


今泉定介 編『故実叢書』安斉随筆(伊勢貞丈),吉川弘文館,明32-39. 国立国会図書館デジタルコレクション

絵巻物で見られるゲゲと安斎随筆にみられるゲゲは似ている。
違うところを指摘するのであれば、爪先側の編み余りの有無だろうか。
安斉随筆にみられるゲゲは踵側のみならず、爪先側にも編み余りをそのままに残した形になっている。
絵巻物で見られるゲゲはその爪先側の編み余りが無く踵に編み余りを残すのみで、「履きにくそう」とまでは思わない形になっている。
注目したいのは
「(村井敬義云はく大和河内のゲヽ右の圖とは少し異なり右の圖のゲゲは京都上加茂の神社へ御装束奉る時其の中にあり神前に奉るなり)」
と付け加えている事である。
より簡単に作られた履物であることは間違いないが、かといって粗末に扱われていたわけではなく、必要性があり、この形に作られたと考えられる。
それも神事との関連性があると考えられる。

先行研究の中に「紀伊半島の文化史的研究 民俗編」の中で上井久義氏が「民俗神の象徴と新嘗祭」という投稿をしているものがある。 内容をかなり端的にまとめれば、大草履など通常の草履とは異なる構造(見た目)の草履が民俗神の象徴になり得る、とするものだが、その中にもゲゲとみられる草履は登場する。

松江市にある神魂神社の歩射行事に、ゲゲと称する草履が使われる。ゲゲは踵の部分は縦のワラを長く残したままになり、横ワラが編まれていない草履。

 福井県敦賀市刀根。ショードノとよばれる十二・三才の男児が祭祀の中心となる。祭りの当日ショードノは裃着用・山ウルシの杖を持ち、草履をさげて進む。
草履は足にはく部分がワラを三つ編み状にした縄の形になっている。二方をばらけぬように縛り、これに細いワラ縄の鼻緒がついている。平たい縄を履くようなものだが、これは持って行くだけで履くことはない


関西大学出版部:1988刊行:「紀伊半島の文化史的研究 民俗編」横田健一・上井久義編著 「民俗神の象徴と新嘗祭」上井久義

二点目の福井県敦賀市刀根の例は明らかに先のゲゲと似たものだろう。
一点目は「ゲゲ」という呼称がそのままだが、やや形態が異なるスタイルになっている。
どちらかといえば芯縄を残した足半のようなイメージをする文章である。

このような草履がなぜ神事に利用されてきたのか・・・
今まで草履というと仏教系資料からその履かれ方を追いかけ・考えてきたが、形状の異なる草履は逆に神事の方に利用されている事が確認できる。
もしかしたら信仰によっても履物の在り方が変わるのかもしれない。
注目なのは、現在につながる編み方をしていないこと、である。
現状の草履、いわゆる我々の言う所の畳表、草履表はゲゲと編み方から異なる。
草鞋と草履表は同じ編み方であり、草鞋は韓国・中国にも同じような履物があるという。
その背景から思うと「日本独自の草履(編み方)」といったような形にも思えてくるのである。


■放射草履を考える

次に放射草履について考えてみたい。
改めて注意書きをしておくと、爪先から踵まで放射状の編み余りを残した草履の名称が定まらないため、ここでは「放射草履」と名付けて話を進めていく。

まずは絵巻物に描かれる姿をご覧頂きたい。
先の「日本常民生活絵引」では例が少ないため、ここでは「年中行事絵巻」と「法然上人行状絵図」から引用する。

圧倒的に女性が多いのだが、男性の例も確認できる。
これもゲゲと同じように身分の低さは感じられず、むしろ着飾った高貴な女性が多い。
ゲゲと比べると編み余りが全方位にあるため、現代人としてはその歩きにくさを考えずにはいられない履物である。
しかし、こういった「履きにくさ」は考慮に入らず、敢えてこのスタイルに作ってきたとしか思えない。
これもまた理由があるはずなのである。
しかし、現状この編み余りについて考察されているものを見かけない。
よって、自分で考えるようになっていくのである・・・


▲ヒントはクツの製作過程にあった

そのヒントは突然訪れた。
特に意識していたわけではなかったのだが、藁草履の編み方や藁製履物の編み方について調べていた時、たまたま目に入った資料があった。
まずはそれをご覧頂きたい。

この図が目に入った時、これは放射草履だ・・・と思えたのは私だけだろうか?
これは藁深沓の製作過程である。
放射状の編み余りには意味があるのである。
つまり、深沓の編み途中であることを示す意味である。
爪先側の編み余りはそのまま「甲」になり、踵側の編み余りは「はばき」になる。
その製作途中の台に鼻緒をつけて履いているのである。
この感覚は「はんものぐさ」「しきれ」「あしなか」と先に紹介した例に酷似していると思う。
敢えて未完成のもの履く感覚は当時の独特な感覚であるように思う。

このような目線で見ると、先のゲゲもまたクツなのである。

このように見比べてみると、安斉随筆にみられる爪先に編み余りを残したゲゲは画像右の「クツ(ワラグツ)」と呼ばれる履物の制作過程途中のように見える。
現在でも東北地方にみられる「クツ」の台座は網代編み、踵の編み余りはゲゲと同じである。
安斉随筆に見られたゲゲに爪先側の編み余りがあったのは、「甲」を編むためのものだったのではないだろうか。
クツの甲がやがて省略されるようになり、鼻緒をつけ、ゲゲとして一般にも馴染のある草履となっていた事が推測される。

つまり放射草履もゲゲも、足半同様に「製作途中・未完成」といった意味を含む履物であって、それは本来ならば「クツ」を履く所なのかもしれないが、編み余りを残したままにすることで一歩引いた(畏れた・畏まった)姿勢を見せる事ができる。
故に足半同様に「礼儀無し」として扱われていた事が推測できる。
ここでいう畏れた姿勢の先に見えるのは、目上の人に対してでもあり、それはまた神仏に対してでもあっただろう。
だからこそ、神事において常用外の特殊な草履の存在が確認できるのではないだろうか。
神に対して、かしこみ。履かせて頂く姿がそこに感じられる気がする。
素人の想像に過ぎないが、私はそれ故に「沓の揖」というお辞儀があるのではないかと思う。


また。
クツの未完成品を草履として履いていたということは、逆に言えば、それまでの日本人は「クツ」を履いていたという事が言えるだろう。
日本人は最初から鼻緒の履物を履いていたのではなく。
やがて。日本人は鼻緒の履物を選択したのであろう。
これは現代の履物屋を担う我々にとっても非常に大事な部分であると感じる。
我々はこれからもこの鼻緒の履物を信じていく事になる。


■鼻緒編 緒太から細鼻緒へ

話が鼻緒に触れたところで、今まで注目してこなかった鼻緒についても少し考えてみたい。
資料において、鼻緒を詳細に記したものは少なく、基本的に構造がわかるような鼻緒は少ないと言っても良いと思う。
しかし、その形状から鼻緒そのものが名称として履かれているものもある。
代表的なものが「緒太(おぶと)」という草履になる。
その名の通り緒が太い事を特徴とした草履で、鼻緒が太い事を表している。
その履物の様子がわかる文章として「貞丈雑記」の一文を引用する。

緒太と云は藺の草履也常の如くの紙緒のざうりの緒を太くしたる也眞中のふとき所を三寸廻り程にする也式正の装束着したる時はくざうり也緒太をゐのげゝとも裏なしとも藺金剛とも云也女のはくは緒細き也(うらなしと云を本名とすべし野宮定基卿の説末にしるす


故実叢書編輯部 編『故実叢書』第2,吉川弘文館[ほか],昭和3. 国立国会図書館デジタルコレクション

現代調の表現に変えれば、前ツボの辺りを3寸廻りほどの太さにする、としているから「太い鼻緒」どころではない。
これも現代感覚ではなかなか無いほどの太さになると言って良いだろう。
現在普通に流通している鼻緒の太さで2寸で断った丸鼻緒でもやや太く感じるほどである。
3寸丸ともなれば一本歯や豪傑といった台が思い故に太くする必要がある鼻緒レベルの太さになる。
これが普通の草履についているとなると、それだけで存在感のある草履となっていたことだろう。
この貞丈雑記では「藺の草履也」というように、緒太はい草で編まれた草履限定の表現のようにとれるが、一般人から見る「緒太」とまた少し違うところがあるのかもしれない。

例えば守貞漫稿に見る「緒太」は色々ある。
既に先に引用しているが、改めて引用する。

又中抜草履と云あり表同前にて聊か粗也
緒藁に白紙を巻き縄になひてつける
緒太とも云
専ら持草履也
僕を従ふ者これを携へしむる也
江戸の福草履と同製也
草履取と云奴携(レ)之也
中ぬき草り俗に阿波草履と云

―――――
藁草履 江俗冷飯草履と云 米藁の袴も去らず製(レ)之緒は藁に白紙を巻き二條を捻したるあり
其太きをおぶとヽ云或は極細きくご縄五條を合せたるあり千筋の草履と云
江戸市店丁兒平日専(二)用之(一)す


喜多川守貞 著『類聚近世風俗志 : 原名守貞漫稿』,更生閣書店,昭和9. 国立国会図書館デジタルコレクション

これらを見ると中抜き草履の鼻緒の太いもの、冷飯草履の鼻緒の太いもの、このいずれも「緒太」としているから、「貞丈雑記」の言うところの「藺の草履也」とは異なる解釈となっている。
中抜き草履も冷飯草履も藁製の草履であるから「藺の草履」ではない。
本来は、というよりも有職故実としては貞丈雑記の言う所の「藺草履」であることが正しいのかもしれないが、その緒太は色々な草履に転用されていることがわかる。
「緒太」はその鼻緒が太い物、と解釈した方がわかりやすいのではないだろうか。

気になるのは「緒太」、緒が太い事が何を表していたのか。である。
貞丈雑記で「式正の装束着したる時はくざうり也」としている以上、正式な場に臨むためには太い鼻緒をすげる必要があったのだろうと思う。

昔の鼻緒の在り方は現在の路次草履の姿を見るとよく想像する事ができる。
その鼻緒は左縄、3本を綯ったものである。
その太い鼻緒をイメージすれば、まるで注連縄のようになる。

露地草履

守貞漫稿の緒太に関する記述を引用すると
「央の最も太き所にて周り概三寸両端漸細し女子は細緒を用て緒太を用ひず」
とあるから、鼻緒はその両端が細くなり注連縄そのもののように作られていたのではないだろうか。
一番最初に戻れば浄履はその履く者と空間の間に入るものであり、それぞれの清浄さを保つ。
その効果が鼻緒(注連縄)にも期待されているのではないだろうか。
注連縄はいわずもがな、結界になる。
足元に結界を張っているように見えてしまう。
やがて鼻緒はむき出しの縄ではなく、紙・布・革などが巻かれて今の鼻緒へと変化していくわけだが、未だに芯縄が左縄であるのは非常に興味深い。

また、その鼻緒の太さは身分や地位といった位を表していたように思う。
「女子は細緒」というのも一つあるが、足半に緒太は見られないのではないか。
また、守貞漫稿の冷飯草履の記述で
「或は極細きくご縄五條を合せたるあり千筋の草履と云
江戸市店丁兒平日専(二)用之(一)す」
極細きくご縄五條を合わせた鼻緒は丁稚奉公の者が履いている様子が書かれている。

足半を代表とするように台の短さや大きさと地位の関係があるほか、鼻緒の太さにもまた地位との関連があったように感じる。

また。
現在でも流通がある鼻緒の作りで「二石(にこく)」や「三石(さんごく)」といった鼻緒がある。
この鼻緒に関して仲間内では「なぜ2本(3本)にしたのかわからない」という話がたまに話題に挙がる。
現在の鼻緒はそのほとんどが一本物であるから、二石や三石を作るには職人の手間や材料費が単純に二倍・三倍になるわけである。
しかし、売値としては二倍・三倍の値がつくわけではない(最近は随分変わってきたが・・・)、という作り手の不満がある。
つまり、製造側のメリットが薄い鼻緒と言える。
メリットが薄いものがなぜ存在しているのか?

それが、原型からの変化だったからだろう。
鼻緒の原型は縄であるのは先に示した通り。
二石や三石は・・・つまり、縄に綯う事を省略したのである。
これならば、作り手にもメリットがあるし、これまでの話からもその「存在意義」が生まれているように思う。(生まれた時代には作り手のメリットは関係ないと思うが・・・)
つまり「未完成の鼻緒」ということになるだろう。
「未完成」という要素はこれまでに何度も出てきたように思う。
ここに見えるのは一歩引いた、畏れの姿勢であったはずである。
それが、そのまま鼻緒に表れているのを感じる事ができる。
また、綯う事を省略して三石・二石とするだけでは飽き足らず、その二石のうちの一本をも省略し、極細の鼻緒が履かれるようになるのである。

興味深いのは、価値観が逆転しているように感じることである。
我々の世界では、台は小さければ小さいほど、鼻緒は細ければ細いほど。
良しとされるのである。

これらはかつては自ら低い地位を示す事(謙遜)によって(もしくはそれを強制される事によって)相手への畏れを表していたものであるはずである。
ある意味で、低い地位表明をしている姿にすぎない。
しかし、その姿を良し、カッコいい、粋だとする価値観があるのである。
何よりその姿を好んだのは江戸っ子達であったことだろう。
ツボ下がり、突っ掛けといった履物・履き方はその精神の塊ともいえる。
この姿に日本人の考え方が詰まっている、としても過言ではない。
これを、少しでも伝えていこうと、私はこの長い文章を書いたのかもしれない。


◆参考文献

ものが語る歴史41 下駄の考古学 本村充保 同成社
ものと人間の文化史8 はきもの 潮田鉄雄 法政大学出版局
ものと人間の文化史104 下駄 秋田裕毅 法政大学出版局
紀伊半島の文化史的研究民俗編 横田健一 上井久義編著 関西大学出版部
十五夜綱引の研究 小野重朗 慶友社
日本新道史 岡田荘司 吉川弘文館
新版 絵巻物による日本常民生活絵引 第1~5巻 澁澤敬三・神奈川大学日本常民文化研究所編 平凡社
古代の斎忌(イミ)―日本人の基層信仰― 岡田重精著 国書刊行会
大嘗祭の研究 皇學館大學神道研究所編 皇學館大學出版部
葬送墓制研究集成 第1~5巻 名著出版
日本民俗地図 1~10 文化庁編集 財団法人地理協会

順不同
他、引用時に出典記載


◆あとがき

下駄屋を手伝い始めたころ、まず下駄を履くようになった。
あまり奥まで入れすぎず、踵を出して履きなさい、と教わる。
それをさらにドンドン突き詰めるように履いていくと、突っ掛けと呼ばれる履き方になっていった。
これは、自然な流れだったように思う。

なんで、こんなに踵を出して履くのか。
この疑問は常にあった。
この疑問に対する答えもまた人それぞれで色々とある気がする。
私としてはどれも納得するようなところまで至る解答に当たった事が無かった。

こうして履物史を追いかけてみると、足半という草履は当たり前のように履かれていて、そしてそれは江戸時代辺りまで、武家に根強く残っていた事と考えられる。
民衆がどうであったか、とまでは私には語れないが、少なくとも「踵を出して履く」という景色は当たり前に目の前にあったのではないだろうか。
本来は「未完成の履物」に意味を持たせてきたはずが、いつの間にか「短い履物」に捉えられ、それはまた表現を変えて「踵を出して履きなさい」となっているように思えてくる。
これはまた、本来は人が畏まる姿であったはずである。
しかし、時代が進むと明らかにそこに美しさを感じるようになってくる。
この価値観の変遷と共に、履物の姿も変わっていく様子は非常に面白い。

また、このような移り変わりを意識すると、我々の言う「昔ながら」であるとか「伝統」といったものが何物であるのかわからなくなってくる。
履物史は、ドンドン変われ、と言っているようにも思う。
お前に何ができるのか。と発破をかけられている。

でも、何か守るべきことがあるのではないかという気がして学んできた。
何かを残すとしたら、それは一体なんだろうか。
それはやはり、注連縄を足元につけること。
つまり、鼻緒のある履物であること。
なのかもしれない。



ここまで長文にお付き合い頂きありがとうございました。
何度も見直し、修正したつもりですが、まだ読みにくかったことと思います。
またなにぶん素人の考察故、鵜呑みにせずにこんな話もあるのか、程度に捉えて頂ければと思います。

厚かましいお願いになりますが、もしよろしければ何かの形でご感想をお聞かせ頂ければ幸いです。