粋な人の履物―下駄コラム―丸屋履物店

粋な人の履物

「粋」という言葉そのものが現代人にとってはあまり馴染みのない言葉ではありますが、どこか「粋」という言葉を使ってもみたいし、そうなりたいと思うものだと思います。
下駄・雪駄・草履などの和装履物にとって「粋」という言葉の存在はどんなものになるのか、考えてみようと思います。

よく言われるのは「踵を出して履いた方が良い」「一回り小さいぐらいのサイズが 良い」「細身の台に細身の花緒!」など。
この色!この柄!といったデザイン的な指摘は少なく、主にサイズ感の表現が多く現代にまで伝わっています。
改めて「粋」と「履物」について考察していくと、やはりこの「サイズ感」が「粋」というものに繋がっていくと思うようになりました。

履き心地面からのアプロ―チ ~台幅とフィット感~

「細身の台」や「一回り小さいサイズ感」といった履物を履くその履き心地はどうなのか。
これは下駄屋から言わせれば決して悪いものではなく、花緒のすがる位置などもコンパクトになるため、花緒の調節だけでは不可能な「フィット感」を生みます。
一般的に適切な台幅が「小指が落ちるぐらい」でちょうど良いとされるのも、花緒の位置・台幅からくる適切な足のポジションです。
履きなれない方にとってはその「フィット感」もキツく感じてしまうことがありますが、
慣れた方にとってはその「フィット感」があった方がむしろ履きやすくなるように思います。
その方が履きやすいという姿を突き詰めた形が上記の言葉に繋がるのかもしれません。

身分や格を表す??

昔は若者ほど幅が狭い下駄、年配ほど幅広になっていったという話があります。
実用的な面・履き心地といった観点から見ると、足元が悪い人には幅広の台で安定感を増し、
仕事やお使いなどに動き回るポジション・足の強い人にはよりフィット感のある歩きやすい幅狭を・・・
となり、これはこれで利に適っています。
が、もう一つ大事な要素が「身分」や「格」といったものなのではないかと思います。

大昔まで遡ればそもそも「身分の高い人」だけが履けるもの、といった背景があります。
台幅や大きさが身分を表す・・・といったわけではありませんが、そう考えると見えてくるものがあります。

日本では履物を玄関に揃えて上がるということになりますので、「玄関に脱いだ時の見た目」というのも重要視されてきました。
その場の履物が揃った時に「一足だけやけに大きい」などサイズ感の違いが生じた場合、どうしても悪目立ちしてしまうように思います。

もちろん、身分相応の方がそれを表すために大きく構える、というのはあると思います。

ただ、このコラム内では「粋」ということで「細身の台の方が~」と触れているのはどういうことなのか・・・
それはあえて目立たせないことで周りに溶け込もうとする【履く人の謙遜】からくるものではないか、と感じます。
そこには周りへの見えない気遣いが確かにあります。
「粋」とは本来「人」の様を表す言葉ですから「粋な履物」というのはなく「粋な方の履く履物」ということになります。
その方の履く履物の佇まいから、その人の思いやり・心意気を感じる事が出来るというのを【良し】とされてきたのではないでしょうか。

下駄コラム一覧に戻る